ちゃぷれんの広場

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1がつのコラム (2017年01月01日)

「神は細部に宿る、と教えられて」

~最も小さくされた人にしたことは私にしてくれたことなのだよ~ 聖書

私は整理整頓、掃除があまり好きではなく、気が付くと色々な物が積まれていきます。ある時家族が、「神は細部に宿る」っていう言葉があると言いながら、いつものように掃除をしていました。

私は職業柄、神と言う言葉に弱く、神は細かいこと、小さなこと、面倒だと思われるようなところに、確かにおられ、働いておられる、ということが聖書に書いてあるなあと思い出しました。そうかあ、整理整頓、掃除、当たり前の日常生活の中に神はいるのかなあと、自分の生活を振り返り始めました。

しかし、改善は遅々として進まない中、ある日美術館に行きましたら、そこに展示してある作品の説明の所に、「神は細部に宿る、云々」といったことが書いてあったのです。これは神の導きか、とこれも職業柄、感じるところがあり、最近では段々と「神は細部に宿る」とつぶやきながら、箒を持って掃いたり、片付けを意識するようになりました。

そもそも神さまは小さくされたところに関わっておられ、それは例えばクリスマスの場面にもはっきりと描かれています。幼子イエス様が神の子だというのですから、神様は小さいとされるところにおられるのです。

私はカトリック幼稚園と言うキリスト教の幼稚園で、クリスマスの聖劇もしていたので、神さまがどこにおられるか知らされていたはずなのですが、どうも実際の生活の中では神さまを見失っているようなのです。

私は、神様に出会うことが人生の喜びだと思っています。そして最近、少し整理整頓の習慣が出来てきたように思うのです。整理すると、神様に出会えたかどうか、あまり確証はありませんが、気分がいいのです。整理整頓と神さまのことが直接つながるのかどうかは分かりませんが、たぶん整理整頓や掃除をすると自分だけではなく、身近な人の気分もよくなることが大切なことなのかもしれません。神さまは私たちの心を励ましたり、うれしい気持ちにさせたり、あたたかい気持ちにさせたりするために、いと小さき者となられたのかもしれません。


教会でのクリスマスのご案内 (2016年12月11日)

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福井聖三一教会のクリスマスのご案内

どうぞ、お気軽にご参加ください

2016年12月24日(土)午後7時 キャンドル・ライト・サービス & ティー

12月24日(土)午後11時半 深夜クリスマス礼拝

12月25日(日)午前10時半 クリスマス礼拝 & 祝会


クリスマス会 ~いと高きところには神に栄光~ (2016年12月10日)

advent_coverクリスマス会が行われました。すべての子どもたち、ご家族のみなさん、そして先生方が、このクリスマス会、そして幼子イエス様のお誕生を通して、豊かに祝福されますように。

赤ちゃんイエス様の誕生を覚え、お祝いすることが、命、平和、共生の源であることを、みんなで心に留めたいと思います。


12月のこらむ (2016年12月01日)

クリスマス

暴力吹き荒れる中での、静かな平和への一歩

ロバの背に乗る身重のマリアとヨセフ。体内のイエスを含めた3人の静かなベツレヘムへの旅の歩みは、不安と恐れの中にあったのかもしれません。時の植民地支配者ローマ帝国の命令で、否応なしに住民登録をさせられるために、ベツレヘムまでの長い道のりを旅しなければならなくなりました。この住民登録は民を支配する目的があり、軍事目的と、税金を多く徴収する為でした。支配者によって翻弄される貧しい民の姿が、クリスマスの場面にはありました。

また、身重のマリアとヨセフにとって、イエスの身ごもりと誕生は、決して穏やかに受け入れられる出来事ではありませんでした。身に覚えのない懐妊、世間の目、家族親戚の関係、それらはローマの植民地支配という外圧と同時に、内的な不安や葛藤を引き起こすものでもありました。

外圧や不安は、この3人にとって暴力のように襲いかかり、ベツレヘムへの旅の一歩一歩は決してうきうきしたものではなかったのかも知れません。ようやく着いたベツレヘムでも、泊まる宿、出産にふさわしい安全な場所は確保することが出来ませんでした。

キリスト教で救い主を意味するキリスト。このキリスト・イエスの誕生は、このように暴力と非難、拒否のただ中で起こった出来事だったのです。

クリスマス・ページェント(降誕劇)を毎年いたします。子どもたちはこの降誕劇(聖劇)を通して、それに参加するお友だちも、そうではないお友だちも共にこの物語に触れ、味わうこととなります。配役を巡っての思いや、セリフ、歌、様々な要因が子どもたちの心に色々な感情を呼び起こすかもしれません。

この聖劇はキリスト教主義の幼稚園、保育園、子ども園、学校、施設等で必ず行われている行事です。それは、この幼子イエスの誕生の出来事に込められた神さまの思いに導かれたいという願いから行っています。暴力吹き荒れるただ中で傷つき、戸惑い、自分を失うような経験をしているマリア、ヨセフ、イエスは、なおも自分たちに注がれている神様の眼差しを見失うことはなかったのかもしれません。この三人が歩む一歩一歩は、そこに神様が共におられ、神さまの思いが注がれている、ただそのことのために、一歩一歩を歩むこととなったのでした。私は、子どもたち、そしてご家庭のみなさん、先生方と何を唯一共有したいのかと問われれば、この3人の歩みをと答えたいと思っています。

理不尽な出来事があふれています。しかしなお、痛む者に注がれている眼差しがあることを、私たちは心に留めたいと思います。子どもたちが今とこれからを生きる時、神さまの眼差しが注がれ、神さまが共に歩んでくださっていることを、心の深いところで味わってほしいと思います。平和の君と呼ばれたイエス、マリア、ヨセフの歩みに私たちも連なり、神さまが祝福を降り注いでくださいますように。


11がつのコラム (2016年11月01日)

「解きほぐしのヒント」

ぎっくり腰になって一か月が過ぎました。今振り返ると、色々な原因が考えられる中で、やはりこれが原因だったのかということがはっきりしてきました。それは、オリンピックの影響から、筋トレを始めたことです。私の筋トレイメージは二十歳。

二十歳の自分をイメージして、特に、今までやったことのない腹筋を、二日に一回のペースで、少ししんどいなというくらいの負荷でやっていたのでした。日に日に腹筋の力が増し、とにかく二か月は続けたいとの思いでした。

3週間目くらいに、風呂場で立ち上がった時に、腰に痛みが走りました。その後の無理がたたり、起き上がれないくらいに痛くなりました。二度とこのようなことのないようにと、原因を考え、その対策も考えてきました。原因については、色々な意見がありました。ただ、たぶん、普段しないような腹筋の筋トレを二十歳の自分をイメージしてしたことによって、腰の背中部分に負荷がかかり過ぎ、痛みが出たのだと思います。

この出来事の後、大いに自分を振り返り、反省しました。沢山の皆様に迷惑をかけたことと、自分を過信し過ぎていたことを。

筋肉が凝っていたり、痛みがある時は、負荷をかけたり引っ張ったりは良くないということ。むしろ解きほぐしが大事だということ。そしてこの解きほぐしを色々な人に聞いていくと、大切なヒントが与えられました。詳細を語ることはこの紙面の意図ではないのですが、こわばった部分、硬くなった部分、痛い部分などを解きほぐすという発想はとても大切なことだと教えられました。

実際、色々な方法が解きほぐしにはあると思いますが、優しく手を当て、意識してあげることは共通して大切にされていることのように思います。

約18年前から、私は体が強張ったり、呼吸が苦しくなったり、首に痛みが出るようになりました。それは今も変わりなく、何か生き方や身体的な姿勢に関係してることなのかもしません。正直に自分の心身に向き合うことの謙虚さを学ばねばと思います。

イエスは、硬直してしまった社会や、人間関係、人の生き方やあり方を、解きほぐそうとした人だったのだと思います。イエスがそこにいると、空気が変わりました。見過ごしがちになっていた人に視点が合わされ、共同体は揺さぶられ、新しい世界が生み出されました。一見がんじがらめな世界に見えても、解きほぐしのヒントは日常に沢山あるのかもしれません。イエスはこの地上で生き、この世界で人と関わり、交わりました。その中に、子どもたちを真ん中に来させ、抱き上げて祝福されたことがありました。

私たちの日常は、忙しく、複雑な関係や組織に組み込まれ、バランスを崩すと、回復できないかのような不安が蔓延しています。だからこそ、解きほぐしの方法やヒントが絶対必要だと思います。リセットとも言うのかもしれません。私はそれを、「いつも神さまに、そして誰かに祈られている」ことを意識することだと思っています。

夜寝る時、私の事を祈り、愛しておられる方のことをふと思い返してみる、それだけで、解きほぐしにつながるような気がします。子どもたちが、祈りと祝福の中で、解き放たれて成長していきますように。


9がつのコラム (2016年09月01日)

平和の使者となるために ~違いがあるから素晴らしい~

この夏、アジア青年大会という集まりがマレーシアのクアラルンプールで開かれました。私はその実行委員のメンバーで、幼稚園の子どもたちに、この世界が実に沢山の違いを持った人々と共に生きる素晴らしい世界であることを伝え、又これからどんどんつながっていってほしいという思いから、企画しました。この大会はクリスチャンの集まりで、規模は100名。日本、韓国、香港、台湾、フィリピン、マレーシア、シンガポール、ミャンマー、オーストラリアから青年が参加しました。

教会に集う青年たちの集まりですが、同時に、それぞれの教会が各地域で営む学校や幼稚園、保育園等様々な施設など、地域の必要に向き合う教会の働きも同時に分かち合い、またそれぞれの文化を紹介し合いました。

マレーシアの西マレーシアに位置するクアラルンプール。そこはマレー系やインド・スリランカ系、中国系やその土地の人々、そして近隣諸国から来られているタイ、インドネシア、ミャンマー等の色々な背景を持った方々が共に住む地域でした。当然言語や文化、宗教の違いがある中で共に生き、多様性をとても大切にしている場所でした。

私は、その場所に、さらに違う地域、つまり日本各地、韓国、香港、台湾、フィリピン、マレーシア、シンガポール、ミャンマー、オーストラリアから集まった人々と数日を過ごしたのでした。違いが沢山ありました。そして違っていることの当り前さ、違っていることの楽しさ、違うからこそ豊かになるということを感じました。

幼稚園のおともだちは、この夏、日常とは違う体験をしたかもしれません。私は、子どもたちが、この世界には想像以上に違いを持った人々がいることを知ってほしいし、違いがあるからこそ活かしあえることを体験してほしいと思っています。キリスト教保育を大切にしている私たちは、是非子どもたちが違いを持った者同士豊かに生きていけることを体験してほしいし、この世界には予想を超えた多様性が満ち溢れていて、それは自分をもっともっと豊かにしてくれるというわくわく感を育んでもらいたいと思っています。

神さまは私という存在を愛してくださっています。そして神様は違いを持った他の人々、他の被造物を愛してくださっています。多様性がかけがえのないものだというその意味は、この神さまの愛が自分とそして他の人々を愛しておられる所にあります。私はこの夏にその体験をしました。子どもたちにはこれから出会うたくさんの違いを持った人々と、喜びをもって共に生きていってもらいたいと思います。そのために私はこの体験を紹介し、私がその多様性を楽しく喜びをもって生き、その生きざまを見てもらいたいなと思います。

他者の存在を亡き者にしてしまう可能性のある物を用いるのではなく、互いが愛されているかけがえのないものだという平和を携えて、違いを持った子どもたちと共に生きていきたいと思います。大人が、疑いや恐れをいだくその先にも、神さまの愛が注がれている子どもたちがいることを、心に留めていたいと思います。


8がつのコラム (2016年08月01日)

ダッシュちゃん、ありがとう

うさぎのダッシュちゃんが7月2日に天国に召されました。前日急に調子を崩し、病院に入院することになりました。ダッシュちゃんは人間の年齢で100歳。私が福井に来る前から幼稚園に住んでいて、沢山のお友だちに関わり、沢山のお友だちにお世話になり、沢山のお友だちの様子を見つめ続けてきました。

4日の月曜日、朝の礼拝の中で、ダッシュちゃんが天国に行ったこと、お祈りを通して天国にいるダッシュちゃんとつながっていること、今ダッシュちゃんは神さまのそばで穏やかに過ごしていることを話し、ダッシュちゃんと過ごせたことを感謝し、お祈りいたしました。

いつもそばにいたダッシュちゃんが急にいなくなって、何か心の中にぽっかりと空白部分が出来たような気がします。今天国にいると分かっていても寂しい思いはなくなりません。しかし、この思いは必ず癒され慰められると思います。時が必要かもしれません。そして、死ということの意味を味わう時となるかもしれません。

キリスト教では、お葬式を天国への凱旋と考えることがあります。悲しい、そして同時に、神さまのもとへ帰っていく慰めを心に抱きます。死は悲しみと同時に、また別のものをもたらしてくれるのかもしれません。

私はダッシュちゃんと過ごしたこと、そしてまた離れていくことをも含めて、それらはとても大切な経験なのだと思います。幼稚園では毎日お祈りいたします。おともだちの事、ご家族の事、先生の事をお祈りします。そしておともだちは、今天国にいる大切な存在の事を覚えてお祈りしているかもしれません。ダッシュちゃんは私たちに、目には見えないけれども、祈りを通して、すぐそばにいることを教えてくれるために、天国に行ったのかもしれません。

ダッシュちゃんの天国での憩い、そして悲しい思いをしているすべての人の慰めが与えられますように。神さまの永遠の命の中で、今天国にいる方々と、私たちとが祈りを通して、いつも交わることが出来ますように、イエス様によってお祈りいたします。アーメン。


7がつのコラム (2016年07月01日)

「こどもたちのお庭を作る」

幼稚園をキンダーガルテン(こどもたちのお庭)と言います。このお庭は色々と長年の思いが込められた作りとなっていて、80年を越える聖三一幼稚園には先人の思いが込められた草木が沢山あります。私は6年前に幼稚園にやってきて、そこにある草木を当たり前のように感じていましたが、最近、お庭作りは、一朝一夕にはいかないということを感じさせられています。10年、20年、100年。もっと長い時間の流れの中で、お庭は作られていくものだなあと感じ始めました。私が小さい頃、家のお庭で遊び込みました。そこには色とりどりの花が咲き、季節ごとに違う草花が存在を輝かせ、朝は木々が吐き出す新鮮な空気が家を包み込んでいました。

そんなことを思い出しながら、31年前、自然の中で生き延びるための「冒険図鑑」という私の好きな本を書いた、さとうち藍さんの「武市(ぶいち)の夢の庭」という本を最近手に取る機会がありました。北海道滝上町で「陽殖園」というお庭を作り続けている武市さんの物語です。まだとても小さな時、具合が悪くなっておんぶされて病院に向かう途中、道端の花をねだり、ようやくピンクの花を見せると「うん」といって、握りしめたという。『そしたら武市はそれをずっと離さないのさ。病院に行って注射を打たれようが、何をされようが、その花をずっと握ったままだったね』とお母さんのナミさんが語っています。武市さんが握りしめたピンクの花は、バラ科の可憐なホザキシモッケでした。陽殖園の写真を見ると、何とも素朴で、それでいて武市さんの思いが詰まったお庭を感じます。

武市さんの言葉が印象に残ります。「植物がそこで自分で生きていける方法、それをいつも考えているんだ」。どんなお庭なんだろう、どんな色の花が咲いているのだろう。どんな景色なのかなあ。私ならどんなお庭がいいだろう。そんな夢を描かせてくれる武市さんの夢のお庭。

私は武市さんという、とってもお花が大好きで、お花や草木と共に生きておられるその方の姿から、一人一人の個性や色彩を放つ個々の存在の大切さを教えられるような気がします。決して同じものを同じようには植えない。個々の違いを見極め、大切にするお庭。武市さんのお庭に終わりはありません。完成もないのかもしれません。

私は、幼稚園というお庭、そしてやがては旅立っていくその地域や世界。そのすべてが子どもたちの素敵なお庭であればと思います。武市さんの言葉を心の中で思い巡らします。「植物がそこで自分で生きていける方法、それをいつも考えているんだ」。私は、それを神様の泉が一人一人の子どもたちの中にあることと、親御さんや仲間や他者、そして神様の祈りが愛情となって子どもたちにいつも降り注いでいることを心に留めます。

子どもたちの夢のお庭作り、みなさんとご一緒に作っていきたいと思います。


6がつのコラム (2016年06月01日)

教会と幼稚園

~ただそこにいることのすばらしさ~

聖三一幼稚園は、春山にあります福井聖三一教会の働きから生まれてきました。教会、そして幼稚園は共に、一人ひとりがかけがえのない大切な存在であることを、心に留めるためにある働きです。

昨今、私たちは自分の価値観を、何か人に自慢できるものに求めたり、社会的ステータスに求める傾向が大きくなってきているように感じています。何もしなくても、ただそこにいることの素晴らしさを、ご家庭だけではなく、他の場所でも感じることが出来たら、もっと生きやすく、のびのびと生活できるような気がします。教会も幼稚園も、何の資格も条件もいらず、ただそこにいることのすばらしさを一緒に心に留める場でありたいと思います。

もちろん幼稚園には入園条件や制度がありますが、そのようなことは本質的なことではなく、ただ佇んでいただけるようにとそう思って毎日を過ごしています。是非いつでも誰でも遊びにいらしてほしいと思います。フットサルやバイブル@カフェは特にそのような場でありたいと思います。誰もが無条件にいられる場所、それは子どもたちにとってなくてはならない安心と信頼の場所ではないでしょうか。

教会も毎週日曜日、卒園生のお友だちや、保護者の方が遊びに来てくださっています。礼拝堂での少し長いお祈りの時間や場所ではじっとしていられないお友だちも、遠慮なくホールの方で自由に遊んで頂ければと思います。

神さまはいつもどこででも、一人ひとりを祝福し、見守り導いてくださっていることと思います。神さまの愛の中で、日々恵み豊かに過ごしていけますように。

教会と幼稚園


5がつのこらむ (2016年05月02日)

違った見方が、安心と育ちを支える

~イエス様のことを通して~

わたしは、スリランカのナリニ・ジャヤスリヤさんの絵本が好きで、特にその絵が好きで、幼稚園にもところどころに掲げています。優しいタッチと鮮やかな色彩が好きです。絵にも色々ありますが、聖書の場面を描く絵も無数にあります。それは聖書の見方が沢山あるということで、実は聖書自体も沢山の見方、視点が盛り込まれています。イエス様のお誕生のクリスマスも、4つの違った描き方が聖書の中に書かれています。

それはイエス様に対する見方が一つではないということを意味しています。逆に言えばそのどれも大切であり、そのどれもがあるから、イエス様が浮かび上がってくるということです。わたしが聖三一幼稚園に来た時、一番最初の研修で教えて頂いたことは、子どもたちを見る視点は、自分が見えていることも見えていないこともあるので、みんなの視点、みんなの意見を交わしながら保育することが大切だということでした。

そういえば私が子どものころ、私の周りにいる人が、私の話や行動について複数の違った意見を交わしたり、私に対して色んな違ったアドヴァイスをくださったことを思い出します。その中で、私の意見や行動に賛同し積極的に受け止めてくださる意見を頂く時に、大いに励まされ、支えられ、安心感を持ったことを思い出します。子どもたちも、大いに色んな人と出会い、励まされてほしいと思います。子どもたちの言動について受け止め、共に喜び、共に楽しみ、共に味わうために、様々な見方、在り方は私たちをも励ましてくれるはずです。

そして私たちは違う視点や生き方に出会った時、忍耐をも学び、そこからくみ取る新しい喜びの生き方へと共に成長していきたいと思います。


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