ちゃぷれんの広場

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卒園式 2017年3月17日 (2017年03月17日)

卒園式に寄せて。

子どもたちは新しい場所、新しいお友だちとの出会いに向けて卒園していきます。

それはわくわくと同時に不安もあるでしょう。

卒園の時、それはいつも神さまに守られ、知らない誰かに祈られてきた安心を、また新しい場所で実感するための大切な時なのかもしれません。今度は聖三一のお友だちが新しい場所、新しい人との出会いの中で、信頼と安心の輪を作りだしていってほしいと願います。

おめでとうご卒園、これから出会うすべての上に神様の祝福が豊かにありますように。


3がつのコラム (2017年03月01日)

聖三一幼稚園としての在り方

~子どもたちを私のもとに来させなさい。聖書~

新制度への移行が行われます。2017年度は施設型給付の幼稚園。2018年度はこども園。すべての子どもたちとご家庭のみなさんと共に歩めるようにと願い、新しい制度となります。

この移行にあたり、大切にしていることがあります。それは一人ひとりの子どもたちを一番大切にするということです。そしてそのことのために、新制度となります。具体的には、これまで様々な環境にある子どもたちの一人ひとりと過ごしてきたように、これからもそのために必要な体制を整えるということです。より画一化していく社会の雰囲気を感じる中で、多様な人々が集まることは育ちの上で大変大切なことです。

聖三一幼稚園の特徴は、一人ひとりの子どもたちと向き合うことを大切にしてきたところです。その幼稚園教育の在り方を、制度としての幼稚園の枠を越えて、すべての子どもたちと分かち合っていきたいと願っています。一人ひとりと向き合い、大切にするために、2017年、2018年の2段階の変化を通して、よりゆっくりと、より時間をかけて移行しようとしています。変化は自分たちの大切にしてきた面を見つめるいい機会となります。そして変化は戸惑いやストレスとなることもあります。そのことを一番感じるのが子どもたちだからこそ、ゆっくりとした変化を大切にしています。

また、子どもたちにとって大切なことは、掛け値なしにそこにいることの素晴らしさを実感できることです。無条件でいることの出来る場所があることが最も大事だと思います。無条件に愛情を注がれていること、そのことが特に乳幼児期には必要です。だからこそ、私たちの園は教会と言う場所の大切さを痛感しています。掛け値なしの、子どもたちとご家族、園を思う祈りがささげられる教会。祈りを通して、神さまの愛情を確認しながら、祈り合う関係の中で、子どもたちと育つ幼稚園。そこにいることをそのまま大切にできる幼稚園。この当たり前のことを、これからも幼稚園教育の中で実践していくために新しい制度になります。

幼児教育はこの国では、いつもチャレンジです。何を大切にし、どのような体制を作っていくのか、私たちの園が大切にしたいと願っているものを、みなさんと分かち合っていきたいと思います。


1月のコラム (2017年02月01日)

分かち合うために生まれてきた

~受けるよりは与える方が幸いである~ 聖書

新しい年が始まり、わたしは誰彼なしに今年の目標を聞いていました。私の表現では「ワクワク・プラン」と言うのですが、今年の「ワクワク・プラン」は何ですかとお聞きすると、「ワクワク・プラン」?と不思議そうに、聞き返してくださいます。目標を作らない方もおられますが、せっかく目標を作るのでしたら、わくわくする方が絶対にいいと思ったので「ワクワク・プラン」と言っているのです。

意外だったのが、私がお聞きした殆どの人が最初はわくわくするような目標が無いとおっしゃられるのでした。しかし少し経つと実は一人ひとりにわくわくするプランというか思いがあることが分かってきました。

さて、ある人は今年の目標を「素直にありがとうを伝えること」と言われました。

その言葉がずっと私の心の中にあって、1月が過ぎていきました。私は、気が付くと、人生訓や生き方についての本や言葉に耳を傾ける傾向があることが最近分かってきて、ある本を読んでいて、人間と言うのは自分の賜物を分かち合うことが人生の目的ですという言葉に出会いました。

そこから、ある方の今年の目標「素直にありがとうを伝えること」がつながっているように感じてきました。

ともすると私たちの毎日は、どれだけ受け取ったのか、どれだけ自分の所に集まってきたのかに関心が高まり過ぎ、自分の持っているもの、自分の得意なこと、自分の好きなことをどれだけ周りの人と分かち合っているかについては意識が乏しいように思うのです。自分の賜物についてはなかなか自分で気づけないかもしれませんが、必ずあるものです。そしてそれを分かち合う時に、ありがとうの言葉が出てくるのかもしれません。聖書には「受けるよりは与える方が幸いである」と書いてありますが、受ける時も、実は相手の人に自分の賜物を分かち合っていることがあると、ある本に書いてありました。わくわくするようなプランは実は誰の心にもあると思います。そのわくわくを分かち合うならば、誰にとっても「ありがとう」の瞬間となるのではないでしょうか。子どもたちはわくわくの天才です。自分がわくわくするという賜物が生涯を通して大切にされますように。子どもたちもわくわくする人生を生きてほしいと思います。


1がつのコラム (2017年01月01日)

「神は細部に宿る、と教えられて」

~最も小さくされた人にしたことは私にしてくれたことなのだよ~ 聖書

私は整理整頓、掃除があまり好きではなく、気が付くと色々な物が積まれていきます。ある時家族が、「神は細部に宿る」っていう言葉があると言いながら、いつものように掃除をしていました。

私は職業柄、神と言う言葉に弱く、神は細かいこと、小さなこと、面倒だと思われるようなところに、確かにおられ、働いておられる、ということが聖書に書いてあるなあと思い出しました。そうかあ、整理整頓、掃除、当たり前の日常生活の中に神はいるのかなあと、自分の生活を振り返り始めました。

しかし、改善は遅々として進まない中、ある日美術館に行きましたら、そこに展示してある作品の説明の所に、「神は細部に宿る、云々」といったことが書いてあったのです。これは神の導きか、とこれも職業柄、感じるところがあり、最近では段々と「神は細部に宿る」とつぶやきながら、箒を持って掃いたり、片付けを意識するようになりました。

そもそも神さまは小さくされたところに関わっておられ、それは例えばクリスマスの場面にもはっきりと描かれています。幼子イエス様が神の子だというのですから、神様は小さいとされるところにおられるのです。

私はカトリック幼稚園と言うキリスト教の幼稚園で、クリスマスの聖劇もしていたので、神さまがどこにおられるか知らされていたはずなのですが、どうも実際の生活の中では神さまを見失っているようなのです。

私は、神様に出会うことが人生の喜びだと思っています。そして最近、少し整理整頓の習慣が出来てきたように思うのです。整理すると、神様に出会えたかどうか、あまり確証はありませんが、気分がいいのです。整理整頓と神さまのことが直接つながるのかどうかは分かりませんが、たぶん整理整頓や掃除をすると自分だけではなく、身近な人の気分もよくなることが大切なことなのかもしれません。神さまは私たちの心を励ましたり、うれしい気持ちにさせたり、あたたかい気持ちにさせたりするために、いと小さき者となられたのかもしれません。


教会でのクリスマスのご案内 (2016年12月11日)

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福井聖三一教会のクリスマスのご案内

どうぞ、お気軽にご参加ください

2016年12月24日(土)午後7時 キャンドル・ライト・サービス & ティー

12月24日(土)午後11時半 深夜クリスマス礼拝

12月25日(日)午前10時半 クリスマス礼拝 & 祝会


クリスマス会 ~いと高きところには神に栄光~ (2016年12月10日)

advent_coverクリスマス会が行われました。すべての子どもたち、ご家族のみなさん、そして先生方が、このクリスマス会、そして幼子イエス様のお誕生を通して、豊かに祝福されますように。

赤ちゃんイエス様の誕生を覚え、お祝いすることが、命、平和、共生の源であることを、みんなで心に留めたいと思います。


12月のこらむ (2016年12月01日)

クリスマス

暴力吹き荒れる中での、静かな平和への一歩

ロバの背に乗る身重のマリアとヨセフ。体内のイエスを含めた3人の静かなベツレヘムへの旅の歩みは、不安と恐れの中にあったのかもしれません。時の植民地支配者ローマ帝国の命令で、否応なしに住民登録をさせられるために、ベツレヘムまでの長い道のりを旅しなければならなくなりました。この住民登録は民を支配する目的があり、軍事目的と、税金を多く徴収する為でした。支配者によって翻弄される貧しい民の姿が、クリスマスの場面にはありました。

また、身重のマリアとヨセフにとって、イエスの身ごもりと誕生は、決して穏やかに受け入れられる出来事ではありませんでした。身に覚えのない懐妊、世間の目、家族親戚の関係、それらはローマの植民地支配という外圧と同時に、内的な不安や葛藤を引き起こすものでもありました。

外圧や不安は、この3人にとって暴力のように襲いかかり、ベツレヘムへの旅の一歩一歩は決してうきうきしたものではなかったのかも知れません。ようやく着いたベツレヘムでも、泊まる宿、出産にふさわしい安全な場所は確保することが出来ませんでした。

キリスト教で救い主を意味するキリスト。このキリスト・イエスの誕生は、このように暴力と非難、拒否のただ中で起こった出来事だったのです。

クリスマス・ページェント(降誕劇)を毎年いたします。子どもたちはこの降誕劇(聖劇)を通して、それに参加するお友だちも、そうではないお友だちも共にこの物語に触れ、味わうこととなります。配役を巡っての思いや、セリフ、歌、様々な要因が子どもたちの心に色々な感情を呼び起こすかもしれません。

この聖劇はキリスト教主義の幼稚園、保育園、子ども園、学校、施設等で必ず行われている行事です。それは、この幼子イエスの誕生の出来事に込められた神さまの思いに導かれたいという願いから行っています。暴力吹き荒れるただ中で傷つき、戸惑い、自分を失うような経験をしているマリア、ヨセフ、イエスは、なおも自分たちに注がれている神様の眼差しを見失うことはなかったのかもしれません。この三人が歩む一歩一歩は、そこに神様が共におられ、神さまの思いが注がれている、ただそのことのために、一歩一歩を歩むこととなったのでした。私は、子どもたち、そしてご家庭のみなさん、先生方と何を唯一共有したいのかと問われれば、この3人の歩みをと答えたいと思っています。

理不尽な出来事があふれています。しかしなお、痛む者に注がれている眼差しがあることを、私たちは心に留めたいと思います。子どもたちが今とこれからを生きる時、神さまの眼差しが注がれ、神さまが共に歩んでくださっていることを、心の深いところで味わってほしいと思います。平和の君と呼ばれたイエス、マリア、ヨセフの歩みに私たちも連なり、神さまが祝福を降り注いでくださいますように。


11がつのコラム (2016年11月01日)

「解きほぐしのヒント」

ぎっくり腰になって一か月が過ぎました。今振り返ると、色々な原因が考えられる中で、やはりこれが原因だったのかということがはっきりしてきました。それは、オリンピックの影響から、筋トレを始めたことです。私の筋トレイメージは二十歳。

二十歳の自分をイメージして、特に、今までやったことのない腹筋を、二日に一回のペースで、少ししんどいなというくらいの負荷でやっていたのでした。日に日に腹筋の力が増し、とにかく二か月は続けたいとの思いでした。

3週間目くらいに、風呂場で立ち上がった時に、腰に痛みが走りました。その後の無理がたたり、起き上がれないくらいに痛くなりました。二度とこのようなことのないようにと、原因を考え、その対策も考えてきました。原因については、色々な意見がありました。ただ、たぶん、普段しないような腹筋の筋トレを二十歳の自分をイメージしてしたことによって、腰の背中部分に負荷がかかり過ぎ、痛みが出たのだと思います。

この出来事の後、大いに自分を振り返り、反省しました。沢山の皆様に迷惑をかけたことと、自分を過信し過ぎていたことを。

筋肉が凝っていたり、痛みがある時は、負荷をかけたり引っ張ったりは良くないということ。むしろ解きほぐしが大事だということ。そしてこの解きほぐしを色々な人に聞いていくと、大切なヒントが与えられました。詳細を語ることはこの紙面の意図ではないのですが、こわばった部分、硬くなった部分、痛い部分などを解きほぐすという発想はとても大切なことだと教えられました。

実際、色々な方法が解きほぐしにはあると思いますが、優しく手を当て、意識してあげることは共通して大切にされていることのように思います。

約18年前から、私は体が強張ったり、呼吸が苦しくなったり、首に痛みが出るようになりました。それは今も変わりなく、何か生き方や身体的な姿勢に関係してることなのかもしません。正直に自分の心身に向き合うことの謙虚さを学ばねばと思います。

イエスは、硬直してしまった社会や、人間関係、人の生き方やあり方を、解きほぐそうとした人だったのだと思います。イエスがそこにいると、空気が変わりました。見過ごしがちになっていた人に視点が合わされ、共同体は揺さぶられ、新しい世界が生み出されました。一見がんじがらめな世界に見えても、解きほぐしのヒントは日常に沢山あるのかもしれません。イエスはこの地上で生き、この世界で人と関わり、交わりました。その中に、子どもたちを真ん中に来させ、抱き上げて祝福されたことがありました。

私たちの日常は、忙しく、複雑な関係や組織に組み込まれ、バランスを崩すと、回復できないかのような不安が蔓延しています。だからこそ、解きほぐしの方法やヒントが絶対必要だと思います。リセットとも言うのかもしれません。私はそれを、「いつも神さまに、そして誰かに祈られている」ことを意識することだと思っています。

夜寝る時、私の事を祈り、愛しておられる方のことをふと思い返してみる、それだけで、解きほぐしにつながるような気がします。子どもたちが、祈りと祝福の中で、解き放たれて成長していきますように。


9がつのコラム (2016年09月01日)

平和の使者となるために ~違いがあるから素晴らしい~

この夏、アジア青年大会という集まりがマレーシアのクアラルンプールで開かれました。私はその実行委員のメンバーで、幼稚園の子どもたちに、この世界が実に沢山の違いを持った人々と共に生きる素晴らしい世界であることを伝え、又これからどんどんつながっていってほしいという思いから、企画しました。この大会はクリスチャンの集まりで、規模は100名。日本、韓国、香港、台湾、フィリピン、マレーシア、シンガポール、ミャンマー、オーストラリアから青年が参加しました。

教会に集う青年たちの集まりですが、同時に、それぞれの教会が各地域で営む学校や幼稚園、保育園等様々な施設など、地域の必要に向き合う教会の働きも同時に分かち合い、またそれぞれの文化を紹介し合いました。

マレーシアの西マレーシアに位置するクアラルンプール。そこはマレー系やインド・スリランカ系、中国系やその土地の人々、そして近隣諸国から来られているタイ、インドネシア、ミャンマー等の色々な背景を持った方々が共に住む地域でした。当然言語や文化、宗教の違いがある中で共に生き、多様性をとても大切にしている場所でした。

私は、その場所に、さらに違う地域、つまり日本各地、韓国、香港、台湾、フィリピン、マレーシア、シンガポール、ミャンマー、オーストラリアから集まった人々と数日を過ごしたのでした。違いが沢山ありました。そして違っていることの当り前さ、違っていることの楽しさ、違うからこそ豊かになるということを感じました。

幼稚園のおともだちは、この夏、日常とは違う体験をしたかもしれません。私は、子どもたちが、この世界には想像以上に違いを持った人々がいることを知ってほしいし、違いがあるからこそ活かしあえることを体験してほしいと思っています。キリスト教保育を大切にしている私たちは、是非子どもたちが違いを持った者同士豊かに生きていけることを体験してほしいし、この世界には予想を超えた多様性が満ち溢れていて、それは自分をもっともっと豊かにしてくれるというわくわく感を育んでもらいたいと思っています。

神さまは私という存在を愛してくださっています。そして神様は違いを持った他の人々、他の被造物を愛してくださっています。多様性がかけがえのないものだというその意味は、この神さまの愛が自分とそして他の人々を愛しておられる所にあります。私はこの夏にその体験をしました。子どもたちにはこれから出会うたくさんの違いを持った人々と、喜びをもって共に生きていってもらいたいと思います。そのために私はこの体験を紹介し、私がその多様性を楽しく喜びをもって生き、その生きざまを見てもらいたいなと思います。

他者の存在を亡き者にしてしまう可能性のある物を用いるのではなく、互いが愛されているかけがえのないものだという平和を携えて、違いを持った子どもたちと共に生きていきたいと思います。大人が、疑いや恐れをいだくその先にも、神さまの愛が注がれている子どもたちがいることを、心に留めていたいと思います。


8がつのコラム (2016年08月01日)

ダッシュちゃん、ありがとう

うさぎのダッシュちゃんが7月2日に天国に召されました。前日急に調子を崩し、病院に入院することになりました。ダッシュちゃんは人間の年齢で100歳。私が福井に来る前から幼稚園に住んでいて、沢山のお友だちに関わり、沢山のお友だちにお世話になり、沢山のお友だちの様子を見つめ続けてきました。

4日の月曜日、朝の礼拝の中で、ダッシュちゃんが天国に行ったこと、お祈りを通して天国にいるダッシュちゃんとつながっていること、今ダッシュちゃんは神さまのそばで穏やかに過ごしていることを話し、ダッシュちゃんと過ごせたことを感謝し、お祈りいたしました。

いつもそばにいたダッシュちゃんが急にいなくなって、何か心の中にぽっかりと空白部分が出来たような気がします。今天国にいると分かっていても寂しい思いはなくなりません。しかし、この思いは必ず癒され慰められると思います。時が必要かもしれません。そして、死ということの意味を味わう時となるかもしれません。

キリスト教では、お葬式を天国への凱旋と考えることがあります。悲しい、そして同時に、神さまのもとへ帰っていく慰めを心に抱きます。死は悲しみと同時に、また別のものをもたらしてくれるのかもしれません。

私はダッシュちゃんと過ごしたこと、そしてまた離れていくことをも含めて、それらはとても大切な経験なのだと思います。幼稚園では毎日お祈りいたします。おともだちの事、ご家族の事、先生の事をお祈りします。そしておともだちは、今天国にいる大切な存在の事を覚えてお祈りしているかもしれません。ダッシュちゃんは私たちに、目には見えないけれども、祈りを通して、すぐそばにいることを教えてくれるために、天国に行ったのかもしれません。

ダッシュちゃんの天国での憩い、そして悲しい思いをしているすべての人の慰めが与えられますように。神さまの永遠の命の中で、今天国にいる方々と、私たちとが祈りを通して、いつも交わることが出来ますように、イエス様によってお祈りいたします。アーメン。


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