8がつのコラム (2026年08月01日)
「どうにかなる」
聖書の中で、イエスさまが語られた有名な言葉があります。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」
「心の貧しい人々」とは、自分の力では生きてはゆけない、神さまに助けを求めて、神さまにゆだねるしかない人々のことです。そうした人々こそ「幸いである」とイエスさまは言われます。
私たちの人生は、決して順風満帆にはいかないものです。物事がうまく進まない、すんなりいかないことの方が多いように思います。家庭のこと、育児のこと、仕事のことで、行き詰ることもあります。「この先どうなってしまうのだろうか」と不安を覚え、心がざわつきます。
曹洞宗の住職、枡野俊明さんが、あるの本の中で、こんなことを言っておられました。
「世の中には自分ではどうにもならないことがある。自分ではどうにもならないことは、そのまま、あるがままに受け取っておけばいいのです。心を向けるべきはそこではなく、『どうにかなる』ことのほうです。」
日々どんなにがんばっていても、うまく進まないと感じるとき、それでも、「どうにかなる」方に心を向けるのです。神さまにゆだねるとは、そういうことなのだと思います。
自分の力ではどうにもならなくても、それでも「どうにかなる」と心の中で語りかけてみたとき、そこに目に見えない神さまが私たちに働きかけてくださっていることを感じ取ります。
7がつのコラム (2026年07月01日)
手を合わせる
園では、日々の生活の中で、子どもたちと一緒に、神さまに向かって礼拝をささげます。ある方から、「礼拝でお祈りをするとき、なぜ、手を合わせるのですか」と素朴な質問をいただきました。お祈りをするときに、「手を合わせる」ことの意味をこれまであまり考えることがなかった私にとって、いただいた質問はとても新鮮なものでした。
「手を合わせる」ということは、私たちの心を神さまに向ける祈りの姿勢であると言えます。そうした身体的な姿勢のことを、キリスト教では、「所作」と呼んでいます。
こんな話を聞いたことがあります。右手は強さを表し、左手は弱さを表します。つまり、手を合わせることは、自分の強さと弱さを合わせることなのだというお話でした。そのように意識して、手を合わせてみますと、不思議と自分の心が整えられていくような気がいたします。大野市のあるお寺の看板に、こんなことが書かれていました。
「手を合わせ仏さまを拝むとき、わたしのツノを知らされる。」
これは、あくまで私の解釈ですが、「わたしのツノ」とは、おそらく「角(つの)」のことであり、それは比喩的に、私たち一人ひとりの心がかき乱された状態、荒々しい気持ちのことなのではないでしょうか。「手を合わせる」ことによって、荒々しい「わたしの心」が知らされ、そのことによって、「わたしの心」が鎮まっていくということを言っているのだと思います。
これからも、礼拝の中で、手を合わせ、「心を整える」祈りの姿勢を、園の子どもたちに身につけてほしいと願っています。

6がつのコラム (2026年06月01日)
「大丈夫だよ。」
誰かが隣りで苦しんでいるとき、悲しんでいるとき、どのように声をかけようか、どのように励まそうかと思いながらも、何もできないでいる無力な自分を経験します。
そのようなときに大切なことは、相手の苦しみ、悲しみを無理に取り除こうとするのではなく、むしろその相手の苦しみ、悲しみに共感することなのだと思います。
聖書の中で、「イエスさまは、貧しい人、病気の人の苦しみ、悲しみを知り、深く憐れまれた」ということが記されています。ここで出てきました「憐れむ」という言葉は、ギリシア語で「シュプランクニゾマイ」と呼ばれ、「はらわたを突き動かされる」という意味があります。
相手の苦しみ、悲しみによって、自分のはらわたを突き動かされる。これが苦しみ、悲しみに共感するということです。それゆえに、心の中から湧いてくる言葉があります。そっと語りかけるように「大丈夫だよ。」
本当は大丈夫でないことはわかっている。この苦しみ、悲しみは、生涯ずっと続いてゆくのかもしれない。説明のできない不確かな将来に、「大丈夫だよ」と言える保証があるわけでも、断定することもできない。それでも、「大丈夫だよ」とそっと語りかけるのです。
5がつのコラム (2026年05月01日)
神さまはあなたのことを愛しておられる
聖三一幼稚園では、キリスト教精神に根差した保育、いわゆる「キリスト教保育」を基軸として歩んでまいりました。「キリスト教保育」を通して、子どもたちに一番伝えたいこと、それは、「神さまは、あなたのことを愛しておられる」ということです。
「愛する」とは、平たく言えば、「大切にする」ということです。相手の弱さ、脆さ、痛み、苦しみを知りつつ、その人をその人として受け容れるのです。
私たちは、日々の生活の中で、知らず知らずのうちに、否定的な思いに駆られることがあります。「自分はダメだ、相手のことを好きになれない、周囲に馴染めない、ついて行けない、人と違う自分が嫌だ、自分なんていない方がいい。」そのような否定的な思いに駆られたとしても、それでも「神さまは、あなたのことを愛しておられる。」
大津聖マリア教会の荒木太一牧師が大切なことを申しておりました。それは、否定的な思いに苦しんでいる自分と、神さまに愛されている自分との間に線を引くということです。そうすると、自分自身の中に、新たな自己肯定感が生まれます。
キリスト教保育とは、まさにこの神の愛に根差した子どもたち一人ひとりの自己肯定感を育むことにあるのだと言えます。子どもたちは、園での日々の礼拝、祈り、生活を通して、神さまから愛されていることを経験します。そこで養われる自己肯定感によって、他者への思いやりの心、他者を大切にする気持ちが育まれていきます。
4がつのコラム (2026年04月01日)
人生のテーマ
将棋界で活躍している藤井聡太棋士が、どのような考えや想い、姿勢でもって将棋に挑んでいるのか、以前から興味を抱いておりました。藤井棋士の師匠である杉本昌隆さんの著書『藤井聡太は、こう考える』を手に取って読み始めましたところ、そこで少しだけ見えてくるものがありましたので、お話します。
藤井棋士は、誰よりも「考えたい人」なのだと言います。先を読むため、また最善の一手を考えるために、限られた時間を惜しみなく使います。どこまでも深く考えるその姿は、まるで「思考の沼に入る込むことを自ら好んでいるよう」です。
もちろん、将棋は勝ち負けがつきものですから、誰でも負けた時は、悔しさがこみ上げてきます。けれども藤井棋士は、負けた時も気持ちを切り替えて、自分の中で納得できる敗因を見つけることに専念します。勝ちにこだわっていません。ただ将棋が好きなだけ。勝つことよりも読むこと、「将棋の真理というべきものを求めているのです」。
最近のインタビューでは、「面白い将棋を指す、これからは楽しんでいただけるような将棋をしたい」と述べていたそうです。藤井棋士の構想は、「勝ち負けへの意識ではなく、人に感動を与える棋譜を残したいというものなのです。」
このような藤井棋士の構想に触れて、自分自身の中で、明確な人生の目標・ビジョン、いわば「人生のテーマ」を持つことの大切さを感じ取りました。私にとっての人生のテーマは、ひとつ挙げるとすれば、「生きる意味を知ること」です。生きていくうえでの真理に出会いたい。それは、私にとって、日々の生活の中での人々との交わりや分かち合いを通して、イエスさまに出会うことなのです。さらに、その一つひとつの発見から、聖書のメッセージを人々に伝えたい。これが、私の「人生のテーマ」であり、牧師の道を歩もうとしている原点でもあったように思います。
複数あっても良いと思います。自分自身がどうありたいのか、どうしていきたいのか。皆さんお一人おひとりにとっての「人生のテーマ」とは、どのようなものでしょうか。
3がつのコラム (2026年03月01日)
「TOMMORRW」
岡本真夜さんの歌、「TOMMORRW」を思い出しました。次のような詞で
始まります。
「涙の数だけ強くなれるよ アスファルトに咲く花のように」
ここで出てきました「涙(なみだ)」とは、「心の涙」、さらに突き進めて言えば、「心の傷」と呼べるのではないでしょうか。私たちは、日々の生活の中で、人間関係や育児における悩みや葛藤を抱えています。あるいは、大切な人を失い、生きることの喪失を経験することもあります。そのように、私たちは一人ひとり、何かしらの「心の傷」を負って生きています。
問題は、そうした「心の傷」を、自分の中だけに閉じ込めてしまうことにあるのではないでしょうか。本当は心の中で泣いているのだけれども、それを人に見せることができず、ついつい頑張らないといけないと思ってしまいます。
けれども、辛いこと、思い悩むことがあれば、遠慮しないで、誰かに相談すること、自分の弱音を吐くことは、生きていくうえで、とても大切なことなのだと思います。勇気のいることなのかもしれませんが、自分の抱えている辛さや思い悩んでいることを、誰かに話すことによって、その相手も、もしかすると自分と同じような「心の傷」を負っていることに気づかされるのかもしれません。自分一人だけではなく、誰かと「心の傷」を共に分かち合うことができれば、慰めが与えられます。
紀元50~60年頃にイエス・キリストを宣べ伝える使徒として活躍したパウロは、コリントの教会に宛てた手紙の中で、次のようなことを書いています。神さまから与えられる恵みは、私たち自身の「心の傷」、「弱さ」の中においてこそ、十分に発揮されるのだと。
私たちが負っている「心の傷」は、決して恥じるべきものではありません。むしろ、自分の中にある「心の傷」を知り、それを受け入れること、そして、それを誰かと分かち合うことを通して、そこに神さまの恵みが働くのだと思います。
そのように、私たちは、「心の傷」を負いながらも、「アスファルトに咲く花のように」、弱さの内にあって強く生きてゆきます。
2がつのコラム (2026年02月01日)
❀チャプレンのコラム❀
「へだたり」
私たちは、「人」と「人」との関係性において、生かされている存在だと言えます。誰も一人だけでは生きていくことはできません。困っているとき、思い悩んでいるとき、誰かに手を差し伸べてもらえたなら、どんなにうれしいことでしょうか。そこに感謝の気持ちが芽生えます。逆に、誰かに必要とされ、その人に手を差し伸べることができたなら、それも自然と喜びが湧き起こるものです。
日本近代文学を研究されておられる安藤宏さんが、ある本の中で、太宰治の文学に触れながら、現代に生きる私たちに向けて、の必要性を、あえて強調しておられました。もちろん、「人」と「人」との関係性において、他者との協調性が大事になってくるわけですが、それでもなお、他者との「へだたり」が必要なのだと言います。
というのも、「人間は皆同じものだ」、「皆と同じようにしていないといけない」といった強迫観念に囚われ過ぎてしまうと、「自分」というものが周囲に埋没してしまうからなのでしょう。それは、とても息苦しいことなのだと思います。
安藤さんは、むしろ「皆と同じようにできない」、そのような周囲からの疎外感や他者との違いによって、本当の自分らしさ、自分の個性が育まれていくのだと説いています。
チャプレンのコラムで、何度かお話させていただいたと思いますが、聖三一幼稚園では、これまで「キリスト教保育」を基盤として歩んでまいりました。「キリスト教保育」において、子どもたちに一番伝えたいこと、それは「神さまは、私たち一人ひとりのことを愛しておられる」ということです。突き進めて言えば、神さまは、「皆と同じようにできない」そのようなありのままの「あなた」のことを大切にしておられるのです。
この神さまの愛によって、他者との協調性と共に、お互いの「ちがい」を認め合うコミュニケーションの術を、園の生活を通して、子どもたち一人ひとりの中に育まれていくことを願っております。
1がつのコラム (2026年01月01日)
「腰を据える」
牧師を養成する学校、いわゆる神学校のことをご存知でしょうか。聖三一幼稚園の母体で ある聖公会の神学校では、3年間の寮生活を通して、毎日、朝、昼、夕方の計3回礼拝を行 います。その間、聖書、礼拝、ギリシア語、ヘブライ語、キリスト教の歴史など、いくつも の授業を受けます。 ある日、神学校の恩師がこんなことを言っておりました。「腰を据えてやりなさい。」これ が一体どういうことなのか、何となく分かるようで分かりません。きっと、経験を重ねるご とに、身をもって知ることなのだろうと思いながら神学校を卒業し、教会に赴任して年月が 経ちました。 私たちは、生きていくために何かをするには、まず体を動かさなければなりません。けれ ども、日々、体を動かしていても、心がついていっていない、心がどこか彷徨ったまま、置 き去りになってしまっていることの方が多いのではないでしょうか。 忙しい日々の生活の中で、仕事や家庭、さまざまなことがすんなりといかない、不安と緊 張に押しつぶされそうになって、逃げ出したいと思うことがよくあります。 それでも、日々繰り返し、「神さま、助けてください。」と祈り、地に足を着け、体を動か しながら、一つひとつを乗り越えていくうちに、「もしかすると、そうしている自分が一番し っくりくるのかもしれない。」「そうしているここが自分の居場所なのかもしれない。」最近、 ふとそう思え、体に心がつきてきた感覚を受けました。 恩師が言っていた「腰を据えてやりなさい」とは、そういうことだったのかもしれません。 けれども「腰を据える」ために、ときには、場所を離れて、休むことも大切なことなのだと 思います。「逃げ出したいと思う弱いままの自分でもかまわない。」 徐々に腰を据えていきたいと思います。
12月のコラム (2025年12月01日)
〈チャプレンのコラム>
小さな種から
教会の宿舎でアサガオの種を蒔いて育てておりました。花が咲き終わり、たくさんの実がなっています。茶色くなった実を取って、指に挟んで押すと、いとも簡単に殻が割れて、種が出てきました。
11月23日、ほとんどツルだけとなったアサガオと、いよいよお別れすることにしました。つらい、寂しい気持ちが込み上がってきます。なぜそのような気持ちが込み上がってきたのでしょうか。それは、「水やりの分量はこれで大丈夫かな?」「ちゃんと芽が出るかな?」とこれまで心配しながら育ててきた私にとって、そのアサガオがかけがえのないものになったからなのだと思います。私は、他でもないこのアサガオと出会ったのです。出会うことによって、別れが生じたのだと言えます。
けれども、別れは、終わりではなく、むしろ始まりとも言えます。茶色くなった実から取れた小さな種。春に蒔いたのと同じ小さな種です。この小さな種に、新しい命が隠されているのだと感じます。
聖書の中で、イエスさまが私たちに一番伝えたかったこと、それが「神の国」です。イエスさまは、「神の国」を、いろいろなものにたとえて話されます。
「イエスは言われた。『神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。』」(マルコによる福音書4章30~32節)
このように、小さな種から大きな枝が張るように、私たちの抱いている悲しみは、決して無駄なものではなく、むしろその悲しみのあるところから、新たな喜びが生まれる。「神の国」とは、そのようなものなのだと言います。2千年前のベツレヘムでお生まれになったイエスさまは、その「神の国」を私たちに約束してくださっています。
10がつのコラム (2025年10月01日)
❀チャプレンのコラム❀
「魂のゆくえ」
先月のコラムでは、葉っぱと葉っぱの隙間から小さな蕾(つぼみ)が出ているのを発見したというお話をしました。教会宿舎のアサガオの成長日記です。
小さな蕾(つぼみ)を発見した8月13日から数えて11日目、8月24日に初めてのアサガオの花が顔を出しました。それ以降、顔を出しては、夕方にはしぼみ、また次の日の朝、違うところから顔を出すといった具合に、日々、表情を変えながら、今私がこのコラムを書いている9月23日現在も、たくさんの顔を見せてくれています。ときより風が吹くと、何の抵抗もしないで、ありのままに揺れているその姿を見つめていますと、なんだか穏やかな気持ちになります。
そんなある日、Quruli(くるり)というバンドの「魂のゆくえ」という歌を聞きながら、ふと胸の中で揺れているアサガオの花を思い浮かべておりました。
「輝かしい未来は 胸の中で咲く花のよう そこで揺れたものは 魂のゆくえと呼ばないか」
私たちには、生きているものとしての「こころの動き」というものがあります。日々姿を変えるアサガオのように、私たちのこころは、常に動いています。泣いたり笑ったり、いつも不安定なものです。けれども、こころが動いているということは、そのこころが今もどこかに向かおうとしているからなのではないでしょうか。こころには必ずたどり着く場所があるのだと思います。それを、私たちのこころの最も深いところにある「魂のゆくえ」と言い換えることができるのかもしれません。私たち一人ひとりの人生は、不安定の中にありながらも、こころが一番安心するところ、「魂のゆくえ」を探し求める旅路なのだと思います。
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