ちゃぷれんの広場

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ありさんと (2014年07月31日)

a普段歩いていてもなにも気がつかないのに、おともだちと歩くと、急にありさんの存在に気づきます。あっ、ありさんだー、あっこっちにも、あっだんだんふえてきたー。そんな驚きと共に、おともだちはありさんとひとしきり遊ぶのです。


だんごむし (2014年07月30日)

dこどもたちはだんごむしがだーいすき。こどもたちとだんごむしをながめていると、風の谷のナウシカとオームを思い出します。

仲良く一緒に生きていきたいですね。


石ころ (2014年07月29日)

st聖書に、石ころだらけの畑で宝物を発見するたとえばなしがあります。おともだちも、石ころがちらばっている園庭で、なにやら発見したみたいです。宝物が埋まっているのかな?


目に見えないもの (2014年07月28日)

s小さすぎて見えませんね。でもこどもたちには見えているんですね。大切なものが。「何を発見したの?」


目をとめる (2014年07月27日)

e小さなものに目をとめる、こどもたちは目をとめる天才です。

聖書には小さなものから、神様の愛があふれ出る様子が描かれています。子どもたちの目の先には、神様の愛があふれているんですね。


感動した! ~お泊まり会~ (2014年07月26日)

ip「感動したーー」っと思わずおともだちの口から。感動という言葉をストレートに発するおともだちの感性に感動しました。

先生方が、心を込めた語りで、こどもたちを花火で魅了してくれました。一緒に感動出来た喜びをかみしめています。


夢かなあ ~お泊まり会~ (2014年07月25日)

d「夢かなあ」。おともだちの口から思わず、夢でも見ているかのような花火大会の感動の声がもれました。

わたしたちはもしかしたら見慣れてしまった花火も、こどもたちにとって、とても新鮮で夢のように楽しいひと時だということを心にとめました。


チョコレートの海 (2014年07月06日)

v水たまり、おもわず水の中へ。ちゃぷれんせんせいもいっしょに、水の中へ。ぐるぐるぐるぐる、足でかきまわし、水がチョコレートになりました。

「チョコレートだあ」と叫ぶおともだちと、しばし、チョコレートの海を楽しみました。


おたのしみ会 バルーンの余韻 (2014年07月05日)

bal7月5日はおたのしみ会でした。PTAのみなさんが、異空間を演出。バルーン・シアターに酔いしれ、おともだち全員がバルーン作りをしました。わたしは、うまく出来ませんでした。挫折。

おともだちは、とっても上手に作っていましたね。

おたのしみ会が終わった後、バルーンを集めて、移動する卒園生のおともだちの後ろ姿を発見。おたのしみ会のエッセンスをを両手いっぱいに抱えて、このまま家に帰る勢いです。

このバルーンのように、おたのしみ会では色んな方の色とりどりの活躍がありました。ありがとうございます。一つひとつに神様が目を留められて、祝福してくださいますように。

準備してくださったみなさま、本当にありがとうございました。


7月のコラム (2014年07月01日)

キリスト教は難しい?

「そのとき、イエスはこう言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。』」マタイによる福音書 11章25節

キリスト教主義の幼稚園であることは、どのような特徴を持っているのでしょうか。

幼稚園に通っているこどもたちや、親御さんにとって、キリスト教はどんな意味を持っているのでしょうか。

キリスト教の教えの中で分かりにくい言葉に罪と赦しという言葉があります。罪というのは大切な存在から離れてしまっている状態のことを言い、分裂し、独りよがりに陥っている状態を言います。そしてこれは神様との関係の中で使われる言葉です。赦しというのは、分裂した関係、神様の方向からそれてしまっている関係を、元にもどす、回復することを意味します。

神様といっても分かりにくいと思いますので、自分を大切に思ってくださる方と言い換えてみましょう。この私を大切に思ってくださる方、その方の愛情に正しく向き合うことのできる状態にしてくださった方がおられる。それがイエス・キリストだというのです。単にこの方のことを信じなさいと言っているわけではなく、この方の業を見なさいと聖書は語ります。

キリスト教保育・教育はイエス・キリストに養われ導かれて行われてきました。それはこどもたちばかりではなく、保育者もそうであり、保護者の方々もそうなのです。

イエス・キリストの行いや言葉に一度でも触れてみる、イエス様が教えてくださった主の祈りを口ずさんでみる。その小さな行いがとても大事なのです。

イエス様は、神様のことを「パパ」と呼びました。父よと呼ばれたその父とは、幼子が呼びかける、パパ、あるいはお父ちゃん、といった親しみが込められた呼びかけなのです。つまりイエス様ご自身が幼子のような存在だったということです。幼子の思っていること、感じていること、話す言葉を、細心の注意を払って親御さんは聴くことでしょう。イエス様の言葉も、最初から自分の耳に心地よく入ってくる言葉ではなく、イエス様が話される言葉を、じっくりと聴くことからキリスト教は始まります。それは幼子と向き合うことと似ているかもしれません。

キリスト教の教義は確かに難しいように思います。色々な方が色々に解釈しているからです。しかし、イエス様の言葉や行いは、幼子のそれであり、主の祈り一つでも、こどもたちと話題にしてみることで、大切なメッセージが聞こえてくるように思います。

キリスト教幼稚園は、イエスさまをまん中にして生活することで、幼子や親御さんや、保育者みんなが人生のまん中を生きる体験をする所にあると思います。今日も、神様とのつながりの中で安らぎが与えられますように。


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