ちゃぷれんの広場

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2がつのコラム (2020年02月01日)

「わたしたちも人をゆるします」

園の日常の中で子ども同士の会話で、「ごめんね」「いいよ」というやり取りが良く出てきます。先生を介しての時もありますし、子どもだけの時にも聞こえるやり取りです。「本当に思って言っているのか?」と意地悪な思いになるときもありますが、相手の顔を見てしっかりと謝ることが出来るのは、やはり素晴らしい、大人になっていくとなぜだか素直に「こめんね」が言えなくなっていきます。

私自身、連れ合いとの関係でしっかりと「ごめんなさい」と言えているか。ごくたまに相手に非がある(と私が思っている)時、何日も不穏な空気で過ごします。「一言ごめんと言えば許すのに…」と、もやもやしながらも、うやむやになっていくことがあります。

10年以上前、埼玉の狭山裁判という冤罪事件について学ぶ機会があり、石川さんという無実の罪で逮捕された方の話を聞きました。

ご自身が逮捕されるまでの経緯と、その後の苦しみ、無実を証明するための再審査請求の活動をされていることなどの話の中で、「裁判官が一言『すみませんでした』と謝ってくれれば許そうと思う」と言っておられたのがとても印象に残りました。

石川さんの受けた苦しみは想像することしか出来ませんが、許すということと、怒りを持ち続けることのしんどさ、そのしんどさから早く解放されたいと思っておられるのでは、という印象をうけました。

園でも唱えられている「主の祈り」の中に、「私たちの罪をおゆるしください、私たちも人をゆるします」という言葉があります。この「ゆるし」という単語は他の箇所では「解放・自由」と訳されています。

抑圧や支配など、他の人によって引き起こされている苦しみからの解放も、「罪」という自分自身が犯したことで担っている苦しみからの「ゆるし」も、また、自分以外の人に対する「赦し」も、どれも人間の力ではなく、イエス様を通して働く業です。

イエス様における解放・ゆるしとは、抑圧、圧政からの解放というものだけではなく、憎み続けるしんどさからの解放でした。

様々な思いを持って人と、また、自分自身と接している私たちですが、すべての思いを一旦イエス様におゆだねすることで、解放、赦しが与えられればと思います。