園長先生のコラム

8がつのコラム (2017年08月01日)

平和とすべてのこどもたち

「イエスは幼子を抱き、手をその上において祝福された」

マルコ10章13~16節

幼子が聖書の中に登場します。イエス様の時代の事ですから、今から2000年ほど前のことです。幼子は一人では生きていけず、誰かの愛情が注がれ、誰かのお世話にならないと生きていけない存在です。その幼子との交わりの中に天国があると聖書は語っています。

ある意味それのみが平和な世界、安心の社会の土台です。この土台から、平和を思い、平和を語り、平和を作りだしていくことを考えたいと思います。

この幼子にはすべての民族や国、地域の人が含まれています。違う言語、習慣、宗教が含まれています。あまりに当たり前のことですが、大人はいつも人を分類することに馴らされているので、幼子がすべての幼子であることを心に留めることが出来にくくされているかもしれません。

子どもたちは色々な影響を受けて成長しますが、私は違いを持った人々が共に生きるための意識や関わりを、普段の言動を通して、子どもたちと共有したいと思っています。子どもたちは大人の言動を注意深く見て、真似ていきます。もし私の言動の中に排他的な要素があれば、それは伝わっていくでしょう。

その意味で、私は意識的に違う文化、宗教、言語、人との出会いを模索し、共に生きるために祈っていきたいと思っています。特に言葉の壁は厚いかもしれませんが、そのような壁にぶち当たる時にこそ、イエス様が抱き上げられた幼子は世界中の幼子であることを思い起こしたいと思います。イエス様が愛されたその幼子と共に生きる。それが共に生きる平和の世界を作る土台となるのだと思います。

日本聖公会と言う私が属している教派では、嘗て太平洋戦争中、祈りの中で、この幼子の中に、他の地域、文化、言語、国の幼子がいることを意識できず、日本軍の勝利を祈る、大東亜共栄圏の為の祈りをしてきました。敗戦から約50年後の1996年に日本聖公会は戦争のために祈ったことを懺悔し、すべての幼子と共に生きるために祈り、共に歩む決心をしました。

武器を使うことや戦争は、多くの場合、巻き込まれたという感覚の中で意識されるのかもしれませんが、もう一度、私たちの祈りや願いの中に排他的な思いはないだろうか、その祈りは一部のグループや集団のものとなっていないだろうかと振り返ることも必要かもしれません。

お友だちを抱き上げて、高い高いをする時、すべてのお友だちの中の、唯一無二のそのお友だちを抱き上げて、一緒に遊び楽しんでいることをいつも意識していたいと思います。神さまが愛される幼子一人ひとりと共に歩もうと祈り願う時、そこに平和が実現するように思います。