園長先生のコラム

1がつのこらむ (2024年01月01日)

〈チャプレンのコラム〉

「すべてを忘れて、なお残るもの」

去る20231125()に、聖三一幼稚園の先生方と共に教職員研修会に出席し、『キリスト教保育を学ぶ-子どもと共に守る礼拝-』と題して、小林光先生(熱田教会牧師)の講演を聴く機会が与えられました。

小林先生の講演の中で印象に残ったことは、「すべてを忘れて、なお残るものがある」ということでした。子どもたちがいずれ卒園をして、園生活のことをすべて忘れたとしても、子どもたちひとりひとりの中になお残るものがある。その「なお残るもの」こそが、子どもたちひとりひとりの人格を支える根っこの部分であり、キリスト教保育は、そこに携わっているのだということでした。

「すべてを忘れて、なお残るもの」、それは、ある意味で、私たちがそれぞれの中で普段は気づいていないもう一人の別の自分、言い換えれば「無意識なる自分」であるとも言えるのではないでしょうか。

解剖学者の養老孟司は、現代の脳化社会においては、「意識」の世界を重視し過ぎるあまり、「無意識」の部分が置き去りにされてしまっていると警鐘を鳴らしています。私たちひとりひとりは、自分自身の中にもう一人の別の自分=「無意識なる自分」がいる。その「無意識なる自分」こそが、実は、根っこの部分で「私」を支えているのでしょう。私たちは、キリスト教保育を通して、まさに子どもたちひとりひとりの中にあるそうした「無意識なる自分」に働きかけていくことなのだと思います。

聖三一幼稚園では、毎週火曜日に、園児たちと共に神さまに向かって礼拝をおささげしています。その中で、子どもたちに向かって「神さまは、どんなときもいつも私たちと一緒にいて、守ってくださっています」ということをお話します。子どもたちは、いつも真剣に聞いてくれていますが、いずれ卒園して、そのようなお話のことは忘れてしまうことでしょう。けれども、それでいいのです。それが、いずれ子どもたちが大人になっても、ひとりひとりの「無意識なる自分」の中で生き続け、これからの人生の糧になってくれることを願っております。