ちゃぷれんの広場

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4がつのコラム (2024年04月01日)

変わらず、ゆるがず

今年も春を迎え、美しい満開の桜が私たちを出迎えてくれました。この春の時季になりますと、私は森山直太朗の「さくら」という歌を思い出します。

「さくら、さくら、今咲き誇る。刹那に散りゆく運命(さだめ)と知って。」

美しい満開の桜を見るたびに、できればこのままずっと咲いていてほしいと、誰でも一度は思うことなのではないでしょうか。けれども桜の花は、ずっとそこにとどまり続けることはできない。しばらくすれば、「刹那に散りゆく運命(さだめ)」なのだと、そのことを知ったとき、私たちの心の中で何か切ない気持ちがこみ上げてきます。このことは、何も桜の花だけに限ったことではありません。

毎年春が訪れるたびに、桜の花が私たちに教えてくれること、それは、この世界というものが、もろく儚く、常に移ろいゆくものなのだということです。私たち人間もそこから逃れることはできません。いずれ愛する人を失い、そして他でもないこの私も世を去るときが来ます。

けれども、この世界で、たった一つ、変わらないもの、ゆるがないものがあるとすればそれは何でしょうか。もし人間の側にないのだとすれば、それは、きっと神様の側にあるのでしょう。

私たち人間にではなく、神様だけがもっておられる、変わらないもの、ゆるがないもの。聖書の中で、人々はそれをヘブライ語で「エムナー」と呼びました。この「エムナー」こそ、まさに私たちに対する「キリストの愛」でした。

入園、入学、就職のシーズンを迎え、私たちの生活の環境が大きく変わろうとしています。

園のお友達は、新しいクラスに進級します。慣れないことや、不安に感じることもあるかと思いますが、イエス様はいつも、変わらず、ゆるがず、私たちを大切に守ってくださっています。


3月のこらむ (2024年03月01日)

❀目を閉じ、手を合わせる❀

長い時間、正座をしていると足がしびれてしまうという経験は、誰にでもあるのではないでしょうか。私も、祖父の法事の際にお仏壇の前でずっと正座をしていましたら、いざ立とうとしても、足がしびれて立つことができなかったという恥ずかしい思い出があります。

齊藤孝さんは、『呼吸入門』という本の中で、「正座」について、次のようなことを書いておられました。「正座」という座り方は、人間が自然にできる姿勢ではなく、非自然的な姿勢です。けれども、特に年配の方々の世代では、肘が悪い人は別にして、「正座のほうが楽だ」と言う方々も多い。正座をすることによって、むしろからだも心も休まるのだと言います。これは、「正座」という座り方の「型」が、からだに染みついていて、からだを休める時の「技」になっているからなのだと齊藤さんは指摘しています。

このように「身体作法や身体運用を、からだに『型』として定着させる」ことは、キリスト教の礼拝においても存在します。キリスト教用語では、それを「所作(しょさ)」と呼んでいます。礼拝において「座る」、「立つ」、「ひざまずく」ことは、基本的な「所作」にあたります。自分の額や胸の前で「十字を切る」というのも「所作」の一つです。さらに、神さまに向かってお祈りするときに、というのも大切な「所作」であると言えます。

聖三一幼稚園では、毎週火曜日に子どもたちと一緒に礼拝をおささげしています。礼拝の中でお祈りが始まりますと、子どもたちは皆、静かに目を閉じ、手を合わせます、そのような子どもたち一人ひとりのお祈りの姿にいつも感動させられております。というもの、子どもたち一人ひとり、このお祈りの「所作」が自然とできているのです。

私たちは、神さまに向かって「目を閉じ、手を合わせる」というお祈りの「所作(身体的作法)」を通して、私たち自身の心の在りようを(ととの)えていきます。幼稚園での日々の礼拝の中で、これからも大切にしていきたいことです。


1がつのこらむ (2024年01月01日)

〈チャプレンのコラム〉

「すべてを忘れて、なお残るもの」

去る20231125()に、聖三一幼稚園の先生方と共に教職員研修会に出席し、『キリスト教保育を学ぶ-子どもと共に守る礼拝-』と題して、小林光先生(熱田教会牧師)の講演を聴く機会が与えられました。

小林先生の講演の中で印象に残ったことは、「すべてを忘れて、なお残るものがある」ということでした。子どもたちがいずれ卒園をして、園生活のことをすべて忘れたとしても、子どもたちひとりひとりの中になお残るものがある。その「なお残るもの」こそが、子どもたちひとりひとりの人格を支える根っこの部分であり、キリスト教保育は、そこに携わっているのだということでした。

「すべてを忘れて、なお残るもの」、それは、ある意味で、私たちがそれぞれの中で普段は気づいていないもう一人の別の自分、言い換えれば「無意識なる自分」であるとも言えるのではないでしょうか。

解剖学者の養老孟司は、現代の脳化社会においては、「意識」の世界を重視し過ぎるあまり、「無意識」の部分が置き去りにされてしまっていると警鐘を鳴らしています。私たちひとりひとりは、自分自身の中にもう一人の別の自分=「無意識なる自分」がいる。その「無意識なる自分」こそが、実は、根っこの部分で「私」を支えているのでしょう。私たちは、キリスト教保育を通して、まさに子どもたちひとりひとりの中にあるそうした「無意識なる自分」に働きかけていくことなのだと思います。

聖三一幼稚園では、毎週火曜日に、園児たちと共に神さまに向かって礼拝をおささげしています。その中で、子どもたちに向かって「神さまは、どんなときもいつも私たちと一緒にいて、守ってくださっています」ということをお話します。子どもたちは、いつも真剣に聞いてくれていますが、いずれ卒園して、そのようなお話のことは忘れてしまうことでしょう。けれども、それでいいのです。それが、いずれ子どもたちが大人になっても、ひとりひとりの「無意識なる自分」の中で生き続け、これからの人生の糧になってくれることを願っております。


12がつのコラム (2023年12月01日)

「草むしり検定」

聖書には「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」という言葉がありますが(ローマの信徒への手紙1215節)、これがいかに難しいことか、今触れました「ちいかわ」のエピソードから改めて思わされました。「草むしり検定」に合格した「ちいかわ」は、本当は飛び上がるほど喜びたいのだけれども、となりには泣いている友がいる。逆に、不合格だった「ハチワレ」は、とても落ち込んでいるのだけれども、となりには喜んでいる友がいる。そのようなお互い状況の違う者同士が、共に歩み寄ることの大切さがここで言われているのだと思います。

もうすぐクリスマスがやって来ます。クリスマスは、イエスさまの誕生をお祝いする記念日ですが、私たちが喜んでいる時も、泣いている時も、イエスさまはそのような私たちと一緒に喜び、泣いてくださっています。そのようにいつもイエスさまが私たちと共にいてくださっている救いの出来事、それがクリスマスです。

聖三一幼稚園でも、このクリスマスをお祝いする準備が進められています。聖三一幼稚園に連なるすべての方々にとって、今年も良いクリスマスとなりますようにお祈りいたしております。


11がつのコラム (2023年11月01日)

〈チャプレンのコラム〉

「チームである」ということ

吉本新喜劇が好きで、小さい頃からよくテレビで見ておりましたが、先日、YouTubeで、座員の清水けんじさんが、新喜劇の舞台裏として、ご自身の一周間のルーティンを紹介されているのに目が留まりました。
新喜劇は、火曜日が初日で、前日の月曜日は深夜まで稽古があるそうです。当日の朝。起きてから喉をほぐし、発生のストレッチをし、台本を見直した後、現地でさらに稽古をして、本番を迎える様子が紹介されていました。いざ本番前、清水けんじさんは、その時「稽古でちゃんとできたのだから、できる!」と自己暗示をかけるのだそうです。さらに、清水さんの次の言葉に心が動かされました。

「それに、もし失敗しても、誰かが助けてくれる。」

この清水さんの言葉から、「チームである」ということの核心に触れたような気がしました。「もし失敗しても、誰かが助けてくれる。」そのような仲間への信頼感と安心感は、これまで日々の稽古を通して、並々ならぬ努力と労苦を仲間と分かち合ってきたがゆえに生まれるものであり、この信頼感と安心感こそが本番の舞台を成功に導く一つの大きな鍵になっているのだと思います。

私たちも、この聖三一幼稚園という舞台に立つそのようなチームでありたいと願います。それは、園児たち、先生方、保護者の方々がそれぞれ別のチームということではなく、その枠を越えてお互いが支え合う一つのチームであるということです。

「もし失敗しても、誰かが助けてくれる」という新喜劇の清水さんの言葉から、今回、「チームである」ということについての一つの理念的なことを申し上げましたが、いずれにせよそのように私たちがチームとして立つ聖三一幼稚園という舞台には、いつもイエス様が共にいてくださっていることを覚えたいと思います。