ちゃぷれんの広場

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福井聖三一教会のクリスマス (2018年12月08日)

教会のクリスマス、是非お越しください

12月2日(日) 午前10時半 クリスマス礼拝・祝会

12月24日(

午後 7時  ろうそく礼拝・ティー&ケーキ

午後11時半 深夜クリスマス礼拝

12月25日(火)

午前10時半 クリスマス礼拝

(どの礼拝・集まりも無料)


クリスマス会 ありがとうのクリスマス (2018年12月08日)

img_20181130_113406今年もクリスマス会を開催することが出来感謝でした。

今年の礼拝では、小林チャプレンと6人の仲間(トナカイのトナ、羊のメイとメイメイ、黒ヤギさんと白ヤギさん、カメのカメカメ)がお友だちにクリスマスプレゼントを贈ることにしました。それは物ではなく、赤ちゃんイエス様の声を届けるというプレゼントでした。

チャプレンと仲間たちは目を閉じ、耳を澄ましてイエス様の声を聞きました。

イエス様は「みんな、誕生日を心からお祝いしてくれてありがとう、とってもうれしい」という言葉を聞かせてくれました。それをお友だちに伝えました。

きっと、今日は、大好きなおうちの人やご家族、先生方の前で一生懸命、歌ったり踊ったりすることが出来たことでしょう。うまくいったとおもうこともいかなかったとおもうこともそれらすべてが、赤ちゃんイエス様に届きましたよ。イエス様はそのすべてを感謝し、よろこんでおられますよ。

どうぞ、がんばったお友だちと、今日のことを喜び、今夜はゆっくり休んでくださいね。

みんな、ありがとう。

チャプレンと仲間たち


12がつのコラム (2018年11月30日)

「真理はあなた方を自由にする ~クリスマスに寄せて~」

聖書

クリスマスは、2000年前にイエスさまがお生まれになられたことをお祝いする礼拝です。イエスさまの誕生は、満足のいくような環境が与えられず、動物たちの暮らす小屋での誕生でした。

今は、クリスマスというとプレゼントや、美味しい食事、また嬉しい行事として知られていますが、クリスマスは、この世で虐げられている人々に、神様からの力づけが、圧倒的な愛の注ぎによってなされた、その出来事を心に留める祈りなのです。

クリスマスの場面に登場する人は皆差別を受けている人々でした。夜働く羊飼い、東方の外国人である学者たち、宿を断られたヨセフ、そして身に覚えのない懐妊を引き受け、乳飲み子イエスと共に難民として外国へ逃れることとなるマリア。

クリスマスは、人間の尊厳を貶められ、生き延びるために必死にその時を生きる人々の物語なのです。

そして、ここに登場する人々は、イエスさまの誕生に出会い、また新たな一歩を踏み出していくのです。自分では何も出来ない乳飲み子イエスさまから何かを頂いて。

この物語を、毎年味わうのは、私たちが何か大切なことを忘れないため、生き生きと生きていくためです。自分の持っている神さまから頂いた賜物を存分に生かし、一緒に喜びを分かち合う生き方をするためです。

以前CAPChild Assault Prevention)子どもへの暴力防止プログラムを受けたことがあるのですが、子どもたちが「安全」「安心」「自由」を感じているかが大事だと教わりました。イエス様は恐らくこのどれをも脅かされる環境に居ましたが、神さまの愛の注ぎは、イエス様を愛の人へと成長させてくださったのです。

イエス様が生き生きと安心し自由を感じられたのはどんな時なのかを考えた時、私はサッカーをしている時が一番生き生きしていると感じています。先日ファミリー・フットサルをしていた時、ある女性の保護者の方がゴールキーパーをされ、私がシュートした時、「バレー部なめるなー」と生き生きとした声と共に、見事私のシュートをセーブされた出来事がありました。その方はバレー部だったそうなのですが、ここ一番という時に生き生きしながら、自分を発揮できることは素晴らしいと思いました。生き生きするということは、何にもまして素敵だなと思います。自由で解放された姿がそこにはあるからです。

クリスマスの場面に出てくる人々が、困難な状況にある人々だと書きましたが、その人々はまさに、生き生きする感覚、安全、安心で自由な感覚を取り戻した人々となったということを、是非クリスマスの出来事として心に留めたいと思います。

一人ひとりの心に、そして子どもたちの心に、クリスマスを通して注がれる神さまからの生き生きした愛の息吹が注がれ、心も体も安全、安心、自由を得ることができますように。


10月のこらむ (2018年10月01日)

生きる土台を育てる ~祈り合うつながり~

二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:18〜20)

お祈りは、心の深いところに安心感を育ててくれます。不安はどこからか湧いて出てくることがありますし、不安は大きくなることがあります。その不安は、見たことも会ったこともない人のことを思う時に、目の前に立ちはだかるようなこともあります。

私は奈良県の大和高田市にある高田カトリック幼稚園で幼稚園生活を送っていました。いつも思い出すのは恥ずかしい思い出です。毎日幼稚園から泣いて帰っていました。家と幼稚園が70メートルくらいの距離ですし、今と違って簡単に園の外に出られたのでしょう。それが半年続きました。今もこのエピソードを母がするのを聞くと、何とも言えない恥ずかしさに見舞われます。

半年後に家に帰らなくなったらしいのですが、幼稚園の記憶はこの泣いて帰っていたこと以外に思い浮かばないくらい強烈な記憶です。

その次の思い出は園長先生がオーストラリア人の神父様であったこと、修道女様が園の中に住んでおられたことでした。毎朝聖母子像(マリア様とイエス様)の前でお祈りするのが日課でしたが、それはクリスマスのイエス様誕生と母親のマリア様のことを印象付ける祈りの習慣でもありました。

いつしかオーストラリアから来られた神父様はオーストラリアに帰られましたが、私たちが住むこの世界には、違う国があり、祈りが海の上を超えて行くことがあることを感じ取っていたのでした。その神父様はいつも園のことを思いお祈りしてくださっていました。そのことを母から聞いたのはずっと後のことでした。

先日、当園で戦時中家を作り住んでおられ、後牧師として働かれ、87歳の地上での人生を終えられた野々目司祭様をお見舞いする機会を頂きました。会話は難しかった状況の中で、私は聖三一幼稚園、そして福井聖三一教会のことをお話しした時、強く手を握り、身体を大きくゆすりながら私の話に耳を傾けてくださり、そしてお祈りをさせて頂いた時、神さまの愛に包まれて心と体を委ねていかれるお姿を見たのでした。

司祭であり牧師である野々目先生はこれまで沢山の祈りをし、誰かのために祈って来られました。そして天国に向かうその時、私の祈りの中で、平安を感じながら横たわっておられたと信じます。

祈りは、人生の土台となることを、聖三一幼稚園の大先輩は私たちに、そして子どもたちやご家族のみなさんに、示してくださったと思います。祈りは慰めでもあります。何もできない時、祈ることで救われます。

場所が離れていても、孤独を感じていても、行く先が見えなくても、祈りがあることを信じます。今天国に行かれた野々目司祭様が、天国で聖三一のお友だちのことをお祈りしてくれているでしょう。

そんな祈りの交わりに、養われて今日も過ごしたいと思います。


ご卒園おめでとうございます (2018年03月16日)

2018年3月16日、今日、年長ゆり組さんの卒園式がありました。一歩ふみだしていく一人ひとりの姿に、凛々しさと、そしてわくわくを感じながら、みんなと過ごすことが出来ました。

お祝い会で歌った「はじめのいっぽ」、この歌を歌いながら、いっぽ踏み出すその勇気をいつもみんなに教えてもらっていたことに今日気づかされました。これから歩む一歩いっぽが喜びと祝福に満たされますように、お祈りしています。

ご卒園本当におめでとうございます。そしてありがとう。また会いましょう。


1がつのコラム (2018年01月01日)

ごめんなさいとありがとう

園長先生がいつも、ごあいさつと、ありがとうと、ごめんなさいの言える子になってほしいと言われています。

そのどれもがとても深い意味を持っているように思います。最近私は、人に迷惑をかけることをしてしまい、大いに反省することがありました。そしてごめんなさいと言いながら、もう一つ、ありがとうという思いが浮かんできました。

それは、人の気遣いや思いやりに触れる中で、申し訳ないと思う思いと同時に、ありがたい言葉をかけてくださるなあと、心を揺さぶられたからです。

大人になるにしたがってごめんなさいと心から言えることが難しくなっていくような気がするのですが、ごめんなさいという言葉は、ありがとうという言葉と同時か、あるいは互いに関係する言葉のような気がしました。

新しい学期は、いろんな意味で旅立ちの備えであり、新しいステージに向けての心の変化の時でもあります。ごあいさつ、ありがとう、ごめんなさい。これらの言葉は、実は深いところで関係していて、つながっていて、心に深く働きかけるものであることを、子どもたちと一緒に味わいたいと思います。子どもたちは大人が間違ったこと、悪いことをしたらちゃんとあやまれるか、感謝の時にはちゃんとありがとうを表現しているか、あいさつをしているか、敏感に感じ取っています。

園長先生が大切にされているこの言葉を、みんなで大切にしたいと思います。


クリスマスのふしぎに包まれて (2017年12月09日)

名称未設定-23クリスマス会が行われました。

神さまと大好きな人々の眼差しの中で、お友だちは

神さまの不思議な力に包まれて、思いっきり

日頃の練習の成果を出せたと思います。

幼子イエスさまのお誕生を、今年もみんなで

お祝いできたことを感謝いたします。

いつも幼稚園のことを覚えお祈りしてる教会で

クリスマスの祈りをいたします。

どうぞお越しください。


12がつのこらむ (2017年12月01日)

クリスマスが子どもたちを支え導いてくださいますように

「マリアよ、恐れることはありません。」ルカによる福音書1:31

クリスマスはイエス・キリストの誕生日です。キリスト教主義の乳幼児施設では必ず、クリスマスの出来事を心に留めるために、劇や礼拝を通して、クリスマスの出来事を心に刻んできました。

幼稚園や保育園でクリスマスの劇をしたという方は多いのではないかと思います。なぜクリスマスの物語を乳幼児期に心に留めたいかと言うと、それは子どもたちの根っこの部分に神さまの祝福を感じる感性を養ってもらいたいからなのです。もちろん大人になっても一人ひとりが祝福されていることは間違いないのですが、無意識の根っこの部分で自分が祝福されていることを育めるかどうかがその人の人生の最大の重要事項ですし、それは幼子の時ほど心にしみやすいからです。

神様は、幼子イエス様を通して祝福を表されました。それは、力ではなく、弱さに、きらびやかではなく、ほのかに光るともしびの中に、神様の恵みが注がれていることを教えてくれるのです。

年の頃14歳くらいのマリアに、天使ガブリエルが現れて、マリアに恐れるなと告げます。マリアは身に覚えのない結婚前の妊娠という最大級の不安の中で、恐れが喜びに変えられる恵みを信じて、一歩一歩歩き出します。何がマリアを励ましたのでしょうか。それは、今この瞬間、神様が共にいて支えてくださると信じることが出来たからでした。

クリスマスの出来事は、すぐに私たちを強めたり、励ましたり、支えたりするわけではありません。しかし、大事なことは、その日、その時は必ず私に訪れるということを今信じて一歩踏み出すということなのです。

悲しみが喜びに、不安が安心に、疑いが信頼に変えられる、その日その時をただ神さまが知っておられます。

マリアの不安が喜びに変えられたクリスマスを、子どもたち、ご家族のみなさん、そして先生方と共にお祝いしたいと思います。


10がつのコラム (2017年10月01日)

子どもたちの語りかけ

~初めにことばがあった。~ヨハネによる福音書1:1

子どもたちは、いつも声をかけてくれます。いつも好意的で、やさしく、一緒に遊ぶことを求めてくれています。何か修理をしていると、いつもありがとうと言ってくれます。

ある時には、何か心配そうに悩みを打ち明けてくれます。心配事を分かち合ってくれます。

そんな子どもたちの言葉は、神さまの言葉のように大切で、かけがえのない語りかけです。子どもたちの言葉を聞くと、この世には何一つ聞き逃していい言葉はないということを教えられます。

それは、言葉にならない声も含めてです。

今日も沢山の子どもたちの声を聞きました。もしかしたら聞き逃した声があるかもしれません。

聖書の言葉は、意味が分からないことがありますが、それ自体に力があり、言葉自体が、聞いた人の中で生き、その人を養うという考えがあります。わたしはそれを信じていて、いつか子どもたちの中で、聖書の言葉が子どもたちを支え導いてくださると思っています。

同じように、私に語られた子どもたちの言葉も、受け止めきれなかった語りも、それらすべてが私を生かし、支え、導いてくれるのだということを今感じています。今日聞いた子どもたちの言葉は、明日は忘れているかもしれません。しかし、私を支える言葉として私の中で生き、導いてくれていることは確かです。

また同時に、私が語った言葉や仕草も、子どもたちの中で生きていてくれたらなあと思います。もしかしたら私が語った言葉にも命があるのかもしれないということを、逆に子どもたちから教えられます。そうやって、言葉に命があり、言葉が私を支え、導くというごく日常の当り前の中にある、大切な一瞬を、心に留めていたいなあと思います。子どもたち、声をかけてくれてありがとう。


9がつのコラム (2017年09月01日)

平和への試行錯誤 ~先輩たちを覚えながら~

こどもたちが過ごす毎日は、大好きな人の笑顔と見守りで豊かに育まれていきます。やがて園を卒園する時、その先にはより広く、新しい体験が待っています。それがどのような世界であれ、今経験している大好きな人の笑顔と見守りが消えてなくなるわけではありません。むしろ、そのことがより一層大切にされることを、より広く新しい世界で実感し、実現していってほしいと思います。

キリスト教幼稚園や保育の世界では、年間の保育目標に「平和」を掲げ、過ごしている園が多くあります。「平和」を思う時、まず、イエス様がそうされたように、子どもたちを笑顔で迎え、抱き上げて祝福される光景が目に浮かびます。その光景をいかに大切にできるのか、これが私たちに与えられている課題でもあると思います。

戦前の1935年(昭和10)頃幼稚園に北川大輔先生という方がおられました。この方はその後アメリカの神学校で学ばれ、卒業された時、太平洋戦争が勃発し、アメリカの日系人の人々と共に過ごす決断をされました。戦争中アメリカから見て敵国である日本の関係者ということで日系人の方々が捕虜とされたことがありました。北川先生も捕虜とされましたが、先生はこのことを通して、人種差別や人権ということを心に留められ、アメリカ聖公会(キリスト教の教派)や世界教会協議会(WCC)で、このテーマのもとに国際的に活躍されたのでした。この北川先生のことを思う時に、立場や思いの違いというものがこの世界にはあるのだということを思わされるのでした。

平和を心に留めようとする時に、立場や思いの違いが出てきます。そして平和を思う時に、立場の違う者たちが、共に耳を傾け、共に思いを伝えようとするその試行錯誤が大切なように思います。

最初の園長先生であるパウエル先生は、戦争のためにアメリカに帰国されました。子どもたちはパウエル先生が大好きでした。しかし、戦争は、その大好きな先生に銃を向ける方向へ人間を向かわせてしまいました。

人は何度も間違いを犯し、失敗を繰り返すかもしれません。しかし、北川先生が海を越えられたように、そしてパウエル先生が海を越えて来てくださったように、垣根を越えていく人々のおかげで、私たちは共に平和を祈り願うことが出来るのかもしれません。立場や思いの違いに気付かせてもらえるのかもしれません。

平和を生きるために、私たちは試行錯誤を繰り返すのかもしれません。

平和を求め試行錯誤する時、垣根を越えた私たちの先輩がいたこと、そしてその人々を支え見守っておられたイエス様が、今も子どもたちの事を見つめていることを心に留めたいと思います。


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