12がつのコラム (2023年12月01日)
「草むしり検定」
聖書には「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」という言葉がありますが(ローマの信徒への手紙12章15節)、これがいかに難しいことか、今触れました「ちいかわ」のエピソードから改めて思わされました。「草むしり検定」に合格した「ちいかわ」は、本当は飛び上がるほど喜びたいのだけれども、となりには泣いている友がいる。逆に、不合格だった「ハチワレ」は、とても落ち込んでいるのだけれども、となりには喜んでいる友がいる。そのようなお互い状況の違う者同士が、共に歩み寄ることの大切さがここで言われているのだと思います。
もうすぐクリスマスがやって来ます。クリスマスは、イエスさまの誕生をお祝いする記念日ですが、私たちが喜んでいる時も、泣いている時も、イエスさまはそのような私たちと一緒に喜び、泣いてくださっています。そのようにいつもイエスさまが私たちと共にいてくださっている救いの出来事、それがクリスマスです。
聖三一幼稚園でも、このクリスマスをお祝いする準備が進められています。聖三一幼稚園に連なるすべての方々にとって、今年も良いクリスマスとなりますようにお祈りいたしております。
11がつのコラム (2023年11月01日)
〈チャプレンのコラム〉
「チームである」ということ
吉本新喜劇が好きで、小さい頃からよくテレビで見ておりましたが、先日、YouTubeで、座員の清水けんじさんが、新喜劇の舞台裏として、ご自身の一周間のルーティンを紹介されているのに目が留まりました。
新喜劇は、火曜日が初日で、前日の月曜日は深夜まで稽古があるそうです。当日の朝。起きてから喉をほぐし、発生のストレッチをし、台本を見直した後、現地でさらに稽古をして、本番を迎える様子が紹介されていました。いざ本番前、清水けんじさんは、その時「稽古でちゃんとできたのだから、できる!」と自己暗示をかけるのだそうです。さらに、清水さんの次の言葉に心が動かされました。
「それに、もし失敗しても、誰かが助けてくれる。」
この清水さんの言葉から、「チームである」ということの核心に触れたような気がしました。「もし失敗しても、誰かが助けてくれる。」そのような仲間への信頼感と安心感は、これまで日々の稽古を通して、並々ならぬ努力と労苦を仲間と分かち合ってきたがゆえに生まれるものであり、この信頼感と安心感こそが本番の舞台を成功に導く一つの大きな鍵になっているのだと思います。
私たちも、この聖三一幼稚園という舞台に立つそのようなチームでありたいと願います。それは、園児たち、先生方、保護者の方々がそれぞれ別のチームということではなく、その枠を越えてお互いが支え合う一つのチームであるということです。
「もし失敗しても、誰かが助けてくれる」という新喜劇の清水さんの言葉から、今回、「チームである」ということについての一つの理念的なことを申し上げましたが、いずれにせよそのように私たちがチームとして立つ聖三一幼稚園という舞台には、いつもイエス様が共にいてくださっていることを覚えたいと思います。
8がつのこらむ (2023年08月01日)
〈チャプレンのコラム〉
アリとキリギリス
めざましテレビで放送されているショートアニメ「紙兎ロペ」を、私はよくYouTubeで観ています。何年か前に、その中の登場人物であるロペとアキラ先輩がイソップ童話の「アリとキリギリス」をテーマに話をしていたのを思い出しました。
ご存じの通り、アリたちは食料を運んでしっかり働き続けますが、他方キリギリスはヴァイオリンを弾いて遊んでいます。おそらく誰でもこの童話を呼んで、「私もアリさんのようにこつこつと働かなければならない」と感じることでしょう。私もそう思っておりました。しかし、ショートアニメ「紙兎ロペ」の中で、アキラ先輩は、この童話に対して、おもしろい見解を示します。「キリギリスは遊んでいたのではない。ヴァイオリンを演奏することによって、働き続けるアリたちを、一生懸命励まそうとしたのではないか。」なるほど。確かに音楽には、人を元気づける力がある。「アリさんのようにこつこつと働きなさい。」それはそれで大切なメッセージですが、アキラ先輩の見解からすれば、アリにはアリの才能、能力があり、キリギリスにはキリギリスの才能、能力がある。それは、ある意味「自分らしさ」と言っても良いかもしれません。
聖書では、それぞれ異なる才能、能力、言い換えれば「自分らしさ」を神さまからいただいた「賜物(プレゼント)」として捉え、それを誰かのために役立たせることを勧めています。例えば、キリストの使徒となったパウロは、彼の書いた書簡の中で、体は、目や耳、手や足といった多くの部分から成って一つであるように、それぞれ神さまからいただいた賜物は、人それぞれ異なるのだと述べています。「自分らしさ」、神さまからいただいた「賜物」が人それぞれ異なるからこそ、それが全体の益となる。
時に、私たちは、他者と比較して「自分はなんてダメな人間なんだ」と自己卑下に陥ってしまうことがあります。けれども、自分の嫌いだと思える「自分らしさ」が、実は他者にはない才能、能力、神さまからの「賜物」であるのかもしれません。
5月のこらむ (2023年05月01日)
わたしたちに向かって語りかけられる神さま
チャプレン 藤井 和人
ちょうど一年前から、私は運動不足解消のために、野鳥観察を始めました。カメラを片手に、近くの公園や森に足を運びますと、そこにはさまざまな種類の野鳥たちが生息していることに気づかされます。野鳥たちの鳴き声に耳を傾けてみますとどうでしょうか。近くで小鳥がさえずると、それを聞いていたのか、遠くの方から同じように、別の小鳥がさえずります。まるで小鳥同士が互いに対話をしているかのようです。
今月の主題聖句は、「主よ、(サムエル記上3章9節)です。旧約聖書に登場します少年サムエルは、「サムエルよ」と呼びかける神さまの声を聞きました。そこで少年サムエルは「お話ください。僕は聞いております」と神さまに向かって応答します。そのようにして少年サムエルは、神さまとの対話の中で、神さまと出会い、それ以後、神さまのメッセージをイスラエルの人々に語る預言者となっていきました。
神さまは、単に高いところにある天からこの地上を傍観者のように眺めておられるだけではありません。神さまは、私たちを呼ばれ、私たちに向かって語りかけられます。大切なことは、少年サムエルが「お話ください。僕は聞いております」と神さまに向かって言ったように、私たちも、聖書のみ言葉を通して、今も語りかけておられる神さまの声に耳を傾けていくことなのでしょう。そのように聖書のみ言葉を「聞く」ことを通して、神さまの愛、神さまがいつも私たちを大切に守ってくださっていることを私たちは知っていくのだと思います。
4がつのコラム (2023年04月01日)
一歩を踏み出す
チャプレン 藤井 和人(ふじい かずひと)
はじめまして。この4月から聖三一幼稚園のチャプレンをさせていただくことになりました藤井和人と申します。10年ほど鉄道会社に勤めておりましたが、会社を辞めて、牧師の道を進む決断をいたしました。今年の3月に牧師を養成する神学校を卒業したばかりの駆け出しです。これから園での礼拝のご奉仕を主にさせていただくことになります。
私にとって、春は、どちらかと言えば苦手な季節です。なぜなら、それは、単に花粉症に苦しめられるということだけでなく、新しい生活が始まることに対して不安を抱く季節でもあるからです。そのような季節に、私は「はじめの一歩」という歌を思い出します。
はじめの一歩 あしたに一歩 今日から 何もかもが 新しい
これからどうなるか分からない新しい生活にたとえ不安を抱いていたとしても、それで構わない。大切なことは、それでも勇気をもって一歩を踏み出すことなのだ。この歌には、そのような意味が込められているように思います。キリスト教の信仰から言えば、それは、新しい生活に向かって、その一歩をイエスさまにおゆだねしていくということなのでしょう。
今週の聖句は「子供たちをわたしのところに来させなさい」(マルコによる福音書10章13-16節)です。「わたし」とは、イエスさまのことです。イエスさまは、いつも子どもたち一人一人をご自身のおられるところに招いておられます。このイエスさまの招きによって、園での生活の中で嬉しいときも悲しいときも、そこにいつもイエスさまが一緒にいてくださいます。この4月から新たな一歩を踏み出そうとしている子どもたち一人一人の上に、いつもイエスさまのお守りとお導きがありますように、お祈り申し上げます。