ちゃぷれんのこらむ

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9がつのコラム (2017年09月01日)

平和への試行錯誤 ~先輩たちを覚えながら~

こどもたちが過ごす毎日は、大好きな人の笑顔と見守りで豊かに育まれていきます。やがて園を卒園する時、その先にはより広く、新しい体験が待っています。それがどのような世界であれ、今経験している大好きな人の笑顔と見守りが消えてなくなるわけではありません。むしろ、そのことがより一層大切にされることを、より広く新しい世界で実感し、実現していってほしいと思います。

キリスト教幼稚園や保育の世界では、年間の保育目標に「平和」を掲げ、過ごしている園が多くあります。「平和」を思う時、まず、イエス様がそうされたように、子どもたちを笑顔で迎え、抱き上げて祝福される光景が目に浮かびます。その光景をいかに大切にできるのか、これが私たちに与えられている課題でもあると思います。

戦前の1935年(昭和10)頃幼稚園に北川大輔先生という方がおられました。この方はその後アメリカの神学校で学ばれ、卒業された時、太平洋戦争が勃発し、アメリカの日系人の人々と共に過ごす決断をされました。戦争中アメリカから見て敵国である日本の関係者ということで日系人の方々が捕虜とされたことがありました。北川先生も捕虜とされましたが、先生はこのことを通して、人種差別や人権ということを心に留められ、アメリカ聖公会(キリスト教の教派)や世界教会協議会(WCC)で、このテーマのもとに国際的に活躍されたのでした。この北川先生のことを思う時に、立場や思いの違いというものがこの世界にはあるのだということを思わされるのでした。

平和を心に留めようとする時に、立場や思いの違いが出てきます。そして平和を思う時に、立場の違う者たちが、共に耳を傾け、共に思いを伝えようとするその試行錯誤が大切なように思います。

最初の園長先生であるパウエル先生は、戦争のためにアメリカに帰国されました。子どもたちはパウエル先生が大好きでした。しかし、戦争は、その大好きな先生に銃を向ける方向へ人間を向かわせてしまいました。

人は何度も間違いを犯し、失敗を繰り返すかもしれません。しかし、北川先生が海を越えられたように、そしてパウエル先生が海を越えて来てくださったように、垣根を越えていく人々のおかげで、私たちは共に平和を祈り願うことが出来るのかもしれません。立場や思いの違いに気付かせてもらえるのかもしれません。

平和を生きるために、私たちは試行錯誤を繰り返すのかもしれません。

平和を求め試行錯誤する時、垣根を越えた私たちの先輩がいたこと、そしてその人々を支え見守っておられたイエス様が、今も子どもたちの事を見つめていることを心に留めたいと思います。


8がつのコラム (2017年08月01日)

平和とすべてのこどもたち

「イエスは幼子を抱き、手をその上において祝福された」

マルコ10章13~16節

幼子が聖書の中に登場します。イエス様の時代の事ですから、今から2000年ほど前のことです。幼子は一人では生きていけず、誰かの愛情が注がれ、誰かのお世話にならないと生きていけない存在です。その幼子との交わりの中に天国があると聖書は語っています。

ある意味それのみが平和な世界、安心の社会の土台です。この土台から、平和を思い、平和を語り、平和を作りだしていくことを考えたいと思います。

この幼子にはすべての民族や国、地域の人が含まれています。違う言語、習慣、宗教が含まれています。あまりに当たり前のことですが、大人はいつも人を分類することに馴らされているので、幼子がすべての幼子であることを心に留めることが出来にくくされているかもしれません。

子どもたちは色々な影響を受けて成長しますが、私は違いを持った人々が共に生きるための意識や関わりを、普段の言動を通して、子どもたちと共有したいと思っています。子どもたちは大人の言動を注意深く見て、真似ていきます。もし私の言動の中に排他的な要素があれば、それは伝わっていくでしょう。

その意味で、私は意識的に違う文化、宗教、言語、人との出会いを模索し、共に生きるために祈っていきたいと思っています。特に言葉の壁は厚いかもしれませんが、そのような壁にぶち当たる時にこそ、イエス様が抱き上げられた幼子は世界中の幼子であることを思い起こしたいと思います。イエス様が愛されたその幼子と共に生きる。それが共に生きる平和の世界を作る土台となるのだと思います。

日本聖公会と言う私が属している教派では、嘗て太平洋戦争中、祈りの中で、この幼子の中に、他の地域、文化、言語、国の幼子がいることを意識できず、日本軍の勝利を祈る、大東亜共栄圏の為の祈りをしてきました。敗戦から約50年後の1996年に日本聖公会は戦争のために祈ったことを懺悔し、すべての幼子と共に生きるために祈り、共に歩む決心をしました。

武器を使うことや戦争は、多くの場合、巻き込まれたという感覚の中で意識されるのかもしれませんが、もう一度、私たちの祈りや願いの中に排他的な思いはないだろうか、その祈りは一部のグループや集団のものとなっていないだろうかと振り返ることも必要かもしれません。

お友だちを抱き上げて、高い高いをする時、すべてのお友だちの中の、唯一無二のそのお友だちを抱き上げて、一緒に遊び楽しんでいることをいつも意識していたいと思います。神さまが愛される幼子一人ひとりと共に歩もうと祈り願う時、そこに平和が実現するように思います。


7がつのコラム (2017年07月01日)

Be ファンタジスタ

私がサッカーに興味を持ったのは4年生の体育の時間です。ミニゲームをしていた時に、誰かの放ったシュートが私が出した足によってゴールをそれた。その一瞬の感覚が嬉しくて、サッカーが好きになりました。

好きなことは、自分を助けてくれます。好きなことをしていると、ストレスが緩和されますし、自分も嬉しい気持ちになります。いつの頃からか、毎日、やることに追われ、自分でやることを増やしているのかもよく分からない生活になってきました。教会のことで言えば毎週日曜日に説教というものがあり、聖書のお話をします。また書くこともあったり、毎日予想もしなかったような出来事が次々起こり、その対応をすることとなります。そんな時、これって大事だなと思うことがあります。それは想像力です。イマジネーション。思いつき、アイデア、発想。ふと思いつくことがあれば大概の事は何とかなります。サッカーが好きなので、ちょっと古いかもしれませんがロナウジーニョや中田英寿選手のプレーを見ながら、あの創造的なプレーや独創的な動きはすごいなあと思ってしまいます。サッカーでは素晴らしい発想に基づくプレーをする人をファンタジスタと言います。私は自分のサッカープレーについてあまり想像力を発揮したことがないのですが、今思えば私も私なりのファンタジスタになれたのかもしれないと最近思います。私は小中高とサッカーをしていた時、ある固定観念に凝り固まっていました。それは自分の体格や能力、技術をこんなものだと思っていたことです。しかしファンタジスタと呼ばれる人は、豊かな発想を持っているのです。

子どもたちはファンタジスタです。毎日チャレンジし、工夫し、遊び、発見し、想像力を発揮します。私たちは子どもたちの発想を広げるために、固定観念に凝り固まって、子どもたちの発想を狭めていないかを自らに問いながら日々を過ごしたいと思います。子どもたちが様々な場面で、自分にしかできないような想像力を発揮し、共に生きる世界を切り開いて成長してほしいと思うからです。

やがて子どもたちは私たちの知らない世界に飛び込んで行くでしょう。その時に、愛されている感覚と、豊かな想像力を携えて、思いっきり人生を喜び踊ってほしいと思います。すべての子どもたちがファンタジスタ。すべての人々がファンタジスタなのですから。


6がつのコラム (2017年06月01日)

教育の力

~真理は人を自由にする~ 聖書

福井に来てうれしいことの一つに漢字学の白川静のことを色々な所で見聞きできることがあります。漢字の成り立ちは福井の学校教育の中でも、あるいは公共の施設でも触れる機会があり、これはまさに教育の賜物です。日本全国の中で、福井程白川静の漢字学を教育の中に取り入れている町は無いように思いますし、東洋学の基礎となる漢字学を大いに興味を持ち学ぶ子どもたちが増えることは、自由な学府の雰囲気を高めてくれることでしょう。

一方で、他者に対する非寛容さや排他性も教育が大きな影響力を持っているものです。異質な他者に対する理解を拒否する教育や、一方的な押しつけの教育は、そのような思考、行動へとつながる影響力を持った教育です。ここ数年、憲法を無視した安全保障関連法が可決されたり、武力による解決法が避けがたいものかのような雰囲気が作り出されているような気がしますが、これらは教育に対する脅威であり、挑戦であるような気がしています。

今一度教育の持つ影響力と力を心に留めたいと思います。聖書に「真理は人を自由にする」という言葉があります。私たちは意識するのとしないのとにかかわらず、色々なものに影響を受け、自由であるようでいて自由さから遠ざけられていたり、自由について考えることも、その意味や中身を意識することもないのかもしれません。

いつしか人はこれ以外に選択肢が無いとか、しょうがないという思いの中で今を生きることを余儀なくされています。その一つの例が貧困、格差、戦争であり、なくならないという思考や思いが、現状を作りだしているともいえます。戦争や武力による解決は自由さを失った者の姿です。人は共に生きることが出来、自分が他者に対してどのような思いを抱かせているのかを振り返ることが出来、逆に他者の思いを汲み取るために努力することが出来るのです。先日ある教育の専門家の方から「言っても通じないと嘆くよりも、自分の言い方を少し変えてみては」という言葉を頂きました。教育保育の現場で、人と人との間で、幼稚園とご家庭との間で、そしてお友だちとの間で、毎日営まれている触れ合いと共に生きるための努力。それはこの教育の専門家の方の言葉の実践に他なりません。教育は共に生きるために自分の心を自由にし、振り返ることであって、他者を否定するためにあるものではないことをその教育者の方から教えて頂きました。教育の力は私たちが共に生きるための力です。


4がつのこらむ (2017年05月01日)

主の祈り ~みんなの祈り~

天(てん)におられる私(わたし)たちの父(ちち)よ、

名(な)聖(せい)とされますように。み国(くに)来(き)ますように。

心(こころ)天(てん)行(おこな)われるとおり、地(ち)にも行(おこな)われますように。

わたしたちの日(ひ)ごとの糧(かて)今日(きょう)もお与(あた)えください。

わたしたちの罪(つみ)をおゆるしください。わたしたちも人(ひと)をゆるします。

わたしたちを誘惑(ゆうわく)におちいらせず、悪(あく)からお救(すく)いください。

国(くに)力(ちから)栄光(えいこう)は、永遠(えいえん)にあなたのものです。  アーメン

毎朝のお祈りの時、子どもたちと一緒にお祈りするのがこの主の祈りと呼ばれる祈りです。これはイエス様が教えてくださった祈りで、キリスト教では、誰もが知っている祈りです。子どもたちはこの祈りを祈り、卒園していきます。この祈りの特徴は共に祈るということです。「わたしたち」と複数形で祈ります。それはこの世界のすべての人と共に生きていきたいという願いが込められた祈りだからです。

一緒に生きることは、こんにちは、ありがとう、ごめんなさいと言いながら、一緒にご飯を食べ、一緒に悩み喜べることです。そしてそれを幼稚園では毎日実践しています。天の国は毎日の生活の中にあるのです。そのことをこの祈りは教えてくれています。

共に生きること、それが天の国であり、主の祈りは天の国の祈りです。今私たちの暮らす世界は共に生きることへの困難さを強く感じさせられるような出来事や雰囲気が大きくなっているような気がします。共に生き、共に喜び、共に悩めるような交わりがあることを体験している子どもたちは、平和を作り出す人です。子どもたちの祈りに合わせて、ご家庭でもお祈り頂けたらと思います。神さまの祝福がすべてのご家族の上に豊かにありますように。


4月のこらむ (2017年04月03日)

私は、40歳頃人生の危機というものを意識しました。それは今までの生き方が揺さぶられたり、問い直されたり、価値観が崩れ去りそうになる時なのです。そこで私は人生のグランド・ツアーを計画しました。グランド・ツアーとはヨーロッパの人々があこがれの地イタリアに人生の大旅行をすることだと何かで聞いたことがあり、その旅をすることで自分を見つめなおしたり大切な転機とするというようなことを聞いたことがあったのです。

そこで私は思い切って、行きました。その旅の一つがスコットランドの小さな島アイオナ島でした。一週間の修道院滞在中、滞在者たちで海岸に出かけ、そこで自分の重荷を小石に託し、海に投げ込み、あるメッセージを牧師さんから聞きました。それはここから出発すること、その行き先は、「あなたにしかなしえないことのために、あなたを必要としている場所」へ。

時々思い出すのです。私にしかなしえないことって何だろうと。今もよくわかりません。ただ、私にとってこのグランド・ツアーは必要なことだったと思うのです。時々思い出して、自分を見つめることが出来る、そのことが私が再び歩き始めることを可能とするということを、思い出すのです。人生のグランド・ツアー、それは誰にとっても必要だと思います。

子どもたち、そしてご家族のみなさんも、人生の危機というものが訪れるかもしれません。そして訪れてもいいと思います。その時、何かを思い出せたり、大切な出会いが用意されていると信じることが出来たり、大切な場所を訪れてみようかとふと思い出してもらえたらと思います。そしてその場所が聖三一幼稚園であってほしいし、聖書の言葉であってほしいし、お友だちや先生方、ご家族のみなさんの笑顔であってほしいなと思います。

数日前、この4月で中学3年生になる卒園生に、「幼稚園のこと覚えてる?」と聞いたら「覚えてない」と言っていました。しかし、幼稚園の思い出は、その人の最も深い記憶の中でその人を支え祝福し続けるのです。いつか幼稚園の思い出を、思い出せない時が来たとしても、自分に与えられている使命を意識するような素敵な出会いが必ずあるという「復活」の記憶が、園に関わるすべての人の心に受け継がれていきますようにと祈りつつ、新しい年度を始めたいと思います。


3がつのコラム (2017年03月01日)

聖三一幼稚園としての在り方

~子どもたちを私のもとに来させなさい。聖書~

新制度への移行が行われます。2017年度は施設型給付の幼稚園。2018年度はこども園。すべての子どもたちとご家庭のみなさんと共に歩めるようにと願い、新しい制度となります。

この移行にあたり、大切にしていることがあります。それは一人ひとりの子どもたちを一番大切にするということです。そしてそのことのために、新制度となります。具体的には、これまで様々な環境にある子どもたちの一人ひとりと過ごしてきたように、これからもそのために必要な体制を整えるということです。より画一化していく社会の雰囲気を感じる中で、多様な人々が集まることは育ちの上で大変大切なことです。

聖三一幼稚園の特徴は、一人ひとりの子どもたちと向き合うことを大切にしてきたところです。その幼稚園教育の在り方を、制度としての幼稚園の枠を越えて、すべての子どもたちと分かち合っていきたいと願っています。一人ひとりと向き合い、大切にするために、2017年、2018年の2段階の変化を通して、よりゆっくりと、より時間をかけて移行しようとしています。変化は自分たちの大切にしてきた面を見つめるいい機会となります。そして変化は戸惑いやストレスとなることもあります。そのことを一番感じるのが子どもたちだからこそ、ゆっくりとした変化を大切にしています。

また、子どもたちにとって大切なことは、掛け値なしにそこにいることの素晴らしさを実感できることです。無条件でいることの出来る場所があることが最も大事だと思います。無条件に愛情を注がれていること、そのことが特に乳幼児期には必要です。だからこそ、私たちの園は教会と言う場所の大切さを痛感しています。掛け値なしの、子どもたちとご家族、園を思う祈りがささげられる教会。祈りを通して、神さまの愛情を確認しながら、祈り合う関係の中で、子どもたちと育つ幼稚園。そこにいることをそのまま大切にできる幼稚園。この当たり前のことを、これからも幼稚園教育の中で実践していくために新しい制度になります。

幼児教育はこの国では、いつもチャレンジです。何を大切にし、どのような体制を作っていくのか、私たちの園が大切にしたいと願っているものを、みなさんと分かち合っていきたいと思います。


1月のコラム (2017年02月01日)

分かち合うために生まれてきた

~受けるよりは与える方が幸いである~ 聖書

新しい年が始まり、わたしは誰彼なしに今年の目標を聞いていました。私の表現では「ワクワク・プラン」と言うのですが、今年の「ワクワク・プラン」は何ですかとお聞きすると、「ワクワク・プラン」?と不思議そうに、聞き返してくださいます。目標を作らない方もおられますが、せっかく目標を作るのでしたら、わくわくする方が絶対にいいと思ったので「ワクワク・プラン」と言っているのです。

意外だったのが、私がお聞きした殆どの人が最初はわくわくするような目標が無いとおっしゃられるのでした。しかし少し経つと実は一人ひとりにわくわくするプランというか思いがあることが分かってきました。

さて、ある人は今年の目標を「素直にありがとうを伝えること」と言われました。

その言葉がずっと私の心の中にあって、1月が過ぎていきました。私は、気が付くと、人生訓や生き方についての本や言葉に耳を傾ける傾向があることが最近分かってきて、ある本を読んでいて、人間と言うのは自分の賜物を分かち合うことが人生の目的ですという言葉に出会いました。

そこから、ある方の今年の目標「素直にありがとうを伝えること」がつながっているように感じてきました。

ともすると私たちの毎日は、どれだけ受け取ったのか、どれだけ自分の所に集まってきたのかに関心が高まり過ぎ、自分の持っているもの、自分の得意なこと、自分の好きなことをどれだけ周りの人と分かち合っているかについては意識が乏しいように思うのです。自分の賜物についてはなかなか自分で気づけないかもしれませんが、必ずあるものです。そしてそれを分かち合う時に、ありがとうの言葉が出てくるのかもしれません。聖書には「受けるよりは与える方が幸いである」と書いてありますが、受ける時も、実は相手の人に自分の賜物を分かち合っていることがあると、ある本に書いてありました。わくわくするようなプランは実は誰の心にもあると思います。そのわくわくを分かち合うならば、誰にとっても「ありがとう」の瞬間となるのではないでしょうか。子どもたちはわくわくの天才です。自分がわくわくするという賜物が生涯を通して大切にされますように。子どもたちもわくわくする人生を生きてほしいと思います。


1がつのコラム (2017年01月01日)

「神は細部に宿る、と教えられて」

~最も小さくされた人にしたことは私にしてくれたことなのだよ~ 聖書

私は整理整頓、掃除があまり好きではなく、気が付くと色々な物が積まれていきます。ある時家族が、「神は細部に宿る」っていう言葉があると言いながら、いつものように掃除をしていました。

私は職業柄、神と言う言葉に弱く、神は細かいこと、小さなこと、面倒だと思われるようなところに、確かにおられ、働いておられる、ということが聖書に書いてあるなあと思い出しました。そうかあ、整理整頓、掃除、当たり前の日常生活の中に神はいるのかなあと、自分の生活を振り返り始めました。

しかし、改善は遅々として進まない中、ある日美術館に行きましたら、そこに展示してある作品の説明の所に、「神は細部に宿る、云々」といったことが書いてあったのです。これは神の導きか、とこれも職業柄、感じるところがあり、最近では段々と「神は細部に宿る」とつぶやきながら、箒を持って掃いたり、片付けを意識するようになりました。

そもそも神さまは小さくされたところに関わっておられ、それは例えばクリスマスの場面にもはっきりと描かれています。幼子イエス様が神の子だというのですから、神様は小さいとされるところにおられるのです。

私はカトリック幼稚園と言うキリスト教の幼稚園で、クリスマスの聖劇もしていたので、神さまがどこにおられるか知らされていたはずなのですが、どうも実際の生活の中では神さまを見失っているようなのです。

私は、神様に出会うことが人生の喜びだと思っています。そして最近、少し整理整頓の習慣が出来てきたように思うのです。整理すると、神様に出会えたかどうか、あまり確証はありませんが、気分がいいのです。整理整頓と神さまのことが直接つながるのかどうかは分かりませんが、たぶん整理整頓や掃除をすると自分だけではなく、身近な人の気分もよくなることが大切なことなのかもしれません。神さまは私たちの心を励ましたり、うれしい気持ちにさせたり、あたたかい気持ちにさせたりするために、いと小さき者となられたのかもしれません。


教会でのクリスマスのご案内 (2016年12月11日)

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福井聖三一教会のクリスマスのご案内

どうぞ、お気軽にご参加ください

2016年12月24日(土)午後7時 キャンドル・ライト・サービス & ティー

12月24日(土)午後11時半 深夜クリスマス礼拝

12月25日(日)午前10時半 クリスマス礼拝 & 祝会


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