ちゃぷれんのこらむ

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4がつのコラム (2019年04月03日)

みなさま、ご入園、進級おめでとうございます。

新しい1年が始まりました。

私もこの4月から 認定こども園 聖三一幼稚園 の新しいチャプレンとして皆様と関わらせていただく、出口(でぐち) (たかし) と申します。どうぞよろしくお願いいたします。

「ちゃぷれん」なんだか聞きなれない言葉だと思います。キリスト教の牧師が教会以外の場所、幼稚園などの学校や病院で牧師としての働きをする場合の役名です。「施設付き牧師」と言いましょうか。国によっては軍隊や警察、消防などにもチャプレンがいるそうです。

じゃあ、チャプレンは、牧師は何をする人か?

礼拝をする。聖書のお話、イエス様や神様のお話をする。どれも大切な働きなのですが、一番大切なことが「お祈りをする」ことだと私は考えております。

聖三一幼稚園に繋がるすべての子どもたち、お家の方々、先生とそのご家族。そしてその一人一人が関わるすべての人々に、神様の豊かなお恵みがありますように。イエス様がいつも共にいて、一人一人のすべての思い、うれしい気持ち、悲しい気持ち、言葉にならないすべての思いを受け入れ、分かち合ってくださるように。

誰かに祈られている。子どもたちはもちろん、私たち一人一人が神様にとって大切な存在である。そんなことを、礼拝を通して、お一人お一人との出会いを通してお伝えしていくことが出来ればと思います。


3がつのこらむ (2019年03月01日)

永遠という時間の発見

~新しい一歩を踏み出すお友だちへ~

3月は旅立ちの時です。不安や恐れと期待や喜びが入り混じった心の動き。一歩踏み出す時に誰しもが感じる気持ちです。そんな時、ふと流れて行く時間と、永遠という時間についてお友だちにお話ししたいなと思いました。

人間は、止めることの出来ない時間の流れの中で、否応なく次の一歩を踏み出さなければならない時があります。時は流れ、もう少し立ち止まっていたいのに、それが難しい時があります。

人間はそんな時、新しい発見をしてきました。それは永遠という時間の発見です。時計の針は規則正しく動き、時間は正確に時を刻みます。新しい旅立ちはこのような時間の流れの中で起こる出来ごとです。 そして、その時間は正確に次の時へと進み、移り変わります。同時に、大切な出会いや、思いや、出来事が永遠という時間の中で生きていることを私たちは発見するのです。その時間は、いつでもどこにいても、誰と一緒に居ても、今この瞬間の中で生き生きと流れる時間なのです。これを永遠の時間と呼びます。幼稚園で過ごした時間は永遠です。幼稚園での時間はお友だちを支え、いつもそばにいて包み込んでくれます。お友だちの人生の時の流れの中で、永遠の時間がお友だちをきっと生かしてくれることでしょう。

そしてこの永遠の時間は、深め掘り下げることが出来ます。愛されていたあの時間を、もっと深く味わうことが出来ます。永遠の時間の中で、深め再発見し、味わうことが出来るのです。

この永遠の時間を、いつでも生きることが出来ますようにと願っています。この永遠の時間が、お友だちを支え、励まし、救ってくれることを祈っています。

幼稚園で、イエス様の紙芝居をしてきました。このイエス様は人間の生死でいえば2000年前に死んで天国に行かれた方です。しかし、イエスさまの言葉や行いは今も生きていて、私たちを慰めたり励ましたり、力づけたりしてくれます。そして時には悩ませたり、叱ったり、新しい発見をさせてくれたりします。

幼稚園での時を永遠の時間としてかけがえのないものにし、お友だちを支えてくれるための鍵として、イエス様がいます。なぜなら聖三一幼稚園はイエス様に守られ導かれてきた園だからです。園での安心、先生方の笑顔、教会の祈りは、イエス様のお導きでした。イエス様はいつも一緒にいてくださいます。

いつもどこにいても、お友だち、おうちの人、先生、みんなのことをイエス様のお名前を通してお祈りしています。アーメン。


1月のこらむ (2019年01月03日)

~故ルツ松濱貞子先生を偲ぶ~

「試練の中にあってこそ、謙虚な祈りによって主に守られ、導かれ、そのよろこびと感謝が幼子たちへの愛を更に深めて行った。」松濱先生「創立50年の歩み」より

私たちの敬愛するルツ松濱貞子先生が12月6日(木)早朝、地上での歩みを終え、天国に召されました。101歳と2ヵ月でした。園の主任をしてくださり、40年以上にわたり、子どもたちと共に過ごされ、また教会でいつも子どもたちや子どもたちのご家族のために祈って来られました。

松濱貞子先生は1917(大正6)年10月6日のお生まれで、娘時代の一時期を、幼稚園に隣接していた坂本宅に滞在しておられ、そのころから幼稚園の先生と親しい交わりをされました。その後、郷里で小学校の先生をしておられましたが、太平洋戦争、また敗戦後、ご主人翠さんの故郷福井で、ご家族と共に過ごされることとなりました。しかし、その一年後福井地震に遭遇。全ての物が焼失してしまいました。貞子先生は「一方、内外の方々の支援のもと急ピッチで復興した聖三一幼稚園に迎えられたことは大きな幸いでした。免許状も何もかもなくなった私を、それよりも何よりもノンクリスチャンの私を神様は“来よ!とお招き下さったのでした。神さまは迷える羊を幼な子と共に養って下さいました。」と教会の記念誌に綴っておられます。1949(昭和24)年4月のことでした。

あなたを必要としていますよ、という神様からの招きの声を聞かれ、それに応える決断をされ子どもたちのためのお働きを始められたのでした。

「聖三一幼稚園創立50年の歩み」に貞子先生が大切にしてこられたことが載っています。「神さまによって創られた成長の段階をじっくりと歩もうとしている子どもたちに、私たちが出来ることは、それを助けるための物的・人的の環境をととのえること、そして、真の理解と愛の中で幼子たちの自由のあそびをじっくりと見守る『ゆとり』だと思います。」

今日、私たちの園は、この自由な遊びを通しての保育がますます大切であり、保育者自身が愛と心のゆとりを通して、子どもたちと日々過ごせているのかを自問しつつ、松濱貞子先生が教えてくださった保育の大切さをひしひしと感じています。

私は8年間幼稚園で共に過ごさせて頂く中で、松濱先生が大切にしてこられた保育が、園のあちこちで生きていることを感じてきました。ある先生は、あったかい交わりを大切にされ、子どもたちの前に立つ時は健やかな心と身体で立つことを大切にされ、ある先生は子どもたちとの関係において、手間を惜しまず、本物に触れることを大切にされ、ある先生は季節の草花を通して神様を感じることが出来るように環境を整えられ、ある先生は何事にも丁寧さを大切にすることを、松濱先生から受け継いでこられました。自然を愛する姿にも、松濱先生の影響を感じます。

こどもたちのお庭である幼稚園、そこは神さまが松濱貞子先生を用いられた、天国の花園でした。そのお花畑は、神さまの恵みと言葉にあふれていました。

松濱貞子先生は、「幼稚園の歩みが平坦な道ばかりではなかったようでしたが、しかし神さまの試練の中にあってこそ、謙虚な祈りによって主に守られ、導かれ、そのよろこびと感謝が幼子たちへの愛を更に深めて行ったと思います」、と50年史に綴っておられます。

「試練の中にあってこそ、謙虚な祈りによって主に守られ、導かれ、そのよろこびと感謝が幼子たちへの愛を更に深めて行った。」わたしはここに今園で生活する私たちへのメッセージを感じたいと思います。試練の中にあってこそ、愛を深める祈りがあることを私もこの8年間の間に体験してまいりました。子どもたちやご家族、また幼稚園は試練の中にあった時に、よろこびと感謝の祈りを祈り続けてきました。そこにはいつも松濱貞子先生の祈りがありました。私たちは神さまが松濱貞子先生をお用いになられたのだと思います。心より感謝し、皆様と松濱先生のことをご一緒に偲んで頂ければと思います。


1がつのコラム (2018年01月01日)

ごめんなさいとありがとう

園長先生がいつも、ごあいさつと、ありがとうと、ごめんなさいの言える子になってほしいと言われています。

そのどれもがとても深い意味を持っているように思います。最近私は、人に迷惑をかけることをしてしまい、大いに反省することがありました。そしてごめんなさいと言いながら、もう一つ、ありがとうという思いが浮かんできました。

それは、人の気遣いや思いやりに触れる中で、申し訳ないと思う思いと同時に、ありがたい言葉をかけてくださるなあと、心を揺さぶられたからです。

大人になるにしたがってごめんなさいと心から言えることが難しくなっていくような気がするのですが、ごめんなさいという言葉は、ありがとうという言葉と同時か、あるいは互いに関係する言葉のような気がしました。

新しい学期は、いろんな意味で旅立ちの備えであり、新しいステージに向けての心の変化の時でもあります。ごあいさつ、ありがとう、ごめんなさい。これらの言葉は、実は深いところで関係していて、つながっていて、心に深く働きかけるものであることを、子どもたちと一緒に味わいたいと思います。子どもたちは大人が間違ったこと、悪いことをしたらちゃんとあやまれるか、感謝の時にはちゃんとありがとうを表現しているか、あいさつをしているか、敏感に感じ取っています。

園長先生が大切にされているこの言葉を、みんなで大切にしたいと思います。


クリスマスのふしぎに包まれて (2017年12月09日)

名称未設定-23クリスマス会が行われました。

神さまと大好きな人々の眼差しの中で、お友だちは

神さまの不思議な力に包まれて、思いっきり

日頃の練習の成果を出せたと思います。

幼子イエスさまのお誕生を、今年もみんなで

お祝いできたことを感謝いたします。

いつも幼稚園のことを覚えお祈りしてる教会で

クリスマスの祈りをいたします。

どうぞお越しください。


10がつのコラム (2017年10月01日)

子どもたちの語りかけ

~初めにことばがあった。~ヨハネによる福音書1:1

子どもたちは、いつも声をかけてくれます。いつも好意的で、やさしく、一緒に遊ぶことを求めてくれています。何か修理をしていると、いつもありがとうと言ってくれます。

ある時には、何か心配そうに悩みを打ち明けてくれます。心配事を分かち合ってくれます。

そんな子どもたちの言葉は、神さまの言葉のように大切で、かけがえのない語りかけです。子どもたちの言葉を聞くと、この世には何一つ聞き逃していい言葉はないということを教えられます。

それは、言葉にならない声も含めてです。

今日も沢山の子どもたちの声を聞きました。もしかしたら聞き逃した声があるかもしれません。

聖書の言葉は、意味が分からないことがありますが、それ自体に力があり、言葉自体が、聞いた人の中で生き、その人を養うという考えがあります。わたしはそれを信じていて、いつか子どもたちの中で、聖書の言葉が子どもたちを支え導いてくださると思っています。

同じように、私に語られた子どもたちの言葉も、受け止めきれなかった語りも、それらすべてが私を生かし、支え、導いてくれるのだということを今感じています。今日聞いた子どもたちの言葉は、明日は忘れているかもしれません。しかし、私を支える言葉として私の中で生き、導いてくれていることは確かです。

また同時に、私が語った言葉や仕草も、子どもたちの中で生きていてくれたらなあと思います。もしかしたら私が語った言葉にも命があるのかもしれないということを、逆に子どもたちから教えられます。そうやって、言葉に命があり、言葉が私を支え、導くというごく日常の当り前の中にある、大切な一瞬を、心に留めていたいなあと思います。子どもたち、声をかけてくれてありがとう。


9がつのコラム (2017年09月01日)

平和への試行錯誤 ~先輩たちを覚えながら~

こどもたちが過ごす毎日は、大好きな人の笑顔と見守りで豊かに育まれていきます。やがて園を卒園する時、その先にはより広く、新しい体験が待っています。それがどのような世界であれ、今経験している大好きな人の笑顔と見守りが消えてなくなるわけではありません。むしろ、そのことがより一層大切にされることを、より広く新しい世界で実感し、実現していってほしいと思います。

キリスト教幼稚園や保育の世界では、年間の保育目標に「平和」を掲げ、過ごしている園が多くあります。「平和」を思う時、まず、イエス様がそうされたように、子どもたちを笑顔で迎え、抱き上げて祝福される光景が目に浮かびます。その光景をいかに大切にできるのか、これが私たちに与えられている課題でもあると思います。

戦前の1935年(昭和10)頃幼稚園に北川大輔先生という方がおられました。この方はその後アメリカの神学校で学ばれ、卒業された時、太平洋戦争が勃発し、アメリカの日系人の人々と共に過ごす決断をされました。戦争中アメリカから見て敵国である日本の関係者ということで日系人の方々が捕虜とされたことがありました。北川先生も捕虜とされましたが、先生はこのことを通して、人種差別や人権ということを心に留められ、アメリカ聖公会(キリスト教の教派)や世界教会協議会(WCC)で、このテーマのもとに国際的に活躍されたのでした。この北川先生のことを思う時に、立場や思いの違いというものがこの世界にはあるのだということを思わされるのでした。

平和を心に留めようとする時に、立場や思いの違いが出てきます。そして平和を思う時に、立場の違う者たちが、共に耳を傾け、共に思いを伝えようとするその試行錯誤が大切なように思います。

最初の園長先生であるパウエル先生は、戦争のためにアメリカに帰国されました。子どもたちはパウエル先生が大好きでした。しかし、戦争は、その大好きな先生に銃を向ける方向へ人間を向かわせてしまいました。

人は何度も間違いを犯し、失敗を繰り返すかもしれません。しかし、北川先生が海を越えられたように、そしてパウエル先生が海を越えて来てくださったように、垣根を越えていく人々のおかげで、私たちは共に平和を祈り願うことが出来るのかもしれません。立場や思いの違いに気付かせてもらえるのかもしれません。

平和を生きるために、私たちは試行錯誤を繰り返すのかもしれません。

平和を求め試行錯誤する時、垣根を越えた私たちの先輩がいたこと、そしてその人々を支え見守っておられたイエス様が、今も子どもたちの事を見つめていることを心に留めたいと思います。


8がつのコラム (2017年08月01日)

平和とすべてのこどもたち

「イエスは幼子を抱き、手をその上において祝福された」

マルコ10章13~16節

幼子が聖書の中に登場します。イエス様の時代の事ですから、今から2000年ほど前のことです。幼子は一人では生きていけず、誰かの愛情が注がれ、誰かのお世話にならないと生きていけない存在です。その幼子との交わりの中に天国があると聖書は語っています。

ある意味それのみが平和な世界、安心の社会の土台です。この土台から、平和を思い、平和を語り、平和を作りだしていくことを考えたいと思います。

この幼子にはすべての民族や国、地域の人が含まれています。違う言語、習慣、宗教が含まれています。あまりに当たり前のことですが、大人はいつも人を分類することに馴らされているので、幼子がすべての幼子であることを心に留めることが出来にくくされているかもしれません。

子どもたちは色々な影響を受けて成長しますが、私は違いを持った人々が共に生きるための意識や関わりを、普段の言動を通して、子どもたちと共有したいと思っています。子どもたちは大人の言動を注意深く見て、真似ていきます。もし私の言動の中に排他的な要素があれば、それは伝わっていくでしょう。

その意味で、私は意識的に違う文化、宗教、言語、人との出会いを模索し、共に生きるために祈っていきたいと思っています。特に言葉の壁は厚いかもしれませんが、そのような壁にぶち当たる時にこそ、イエス様が抱き上げられた幼子は世界中の幼子であることを思い起こしたいと思います。イエス様が愛されたその幼子と共に生きる。それが共に生きる平和の世界を作る土台となるのだと思います。

日本聖公会と言う私が属している教派では、嘗て太平洋戦争中、祈りの中で、この幼子の中に、他の地域、文化、言語、国の幼子がいることを意識できず、日本軍の勝利を祈る、大東亜共栄圏の為の祈りをしてきました。敗戦から約50年後の1996年に日本聖公会は戦争のために祈ったことを懺悔し、すべての幼子と共に生きるために祈り、共に歩む決心をしました。

武器を使うことや戦争は、多くの場合、巻き込まれたという感覚の中で意識されるのかもしれませんが、もう一度、私たちの祈りや願いの中に排他的な思いはないだろうか、その祈りは一部のグループや集団のものとなっていないだろうかと振り返ることも必要かもしれません。

お友だちを抱き上げて、高い高いをする時、すべてのお友だちの中の、唯一無二のそのお友だちを抱き上げて、一緒に遊び楽しんでいることをいつも意識していたいと思います。神さまが愛される幼子一人ひとりと共に歩もうと祈り願う時、そこに平和が実現するように思います。


7がつのコラム (2017年07月01日)

Be ファンタジスタ

私がサッカーに興味を持ったのは4年生の体育の時間です。ミニゲームをしていた時に、誰かの放ったシュートが私が出した足によってゴールをそれた。その一瞬の感覚が嬉しくて、サッカーが好きになりました。

好きなことは、自分を助けてくれます。好きなことをしていると、ストレスが緩和されますし、自分も嬉しい気持ちになります。いつの頃からか、毎日、やることに追われ、自分でやることを増やしているのかもよく分からない生活になってきました。教会のことで言えば毎週日曜日に説教というものがあり、聖書のお話をします。また書くこともあったり、毎日予想もしなかったような出来事が次々起こり、その対応をすることとなります。そんな時、これって大事だなと思うことがあります。それは想像力です。イマジネーション。思いつき、アイデア、発想。ふと思いつくことがあれば大概の事は何とかなります。サッカーが好きなので、ちょっと古いかもしれませんがロナウジーニョや中田英寿選手のプレーを見ながら、あの創造的なプレーや独創的な動きはすごいなあと思ってしまいます。サッカーでは素晴らしい発想に基づくプレーをする人をファンタジスタと言います。私は自分のサッカープレーについてあまり想像力を発揮したことがないのですが、今思えば私も私なりのファンタジスタになれたのかもしれないと最近思います。私は小中高とサッカーをしていた時、ある固定観念に凝り固まっていました。それは自分の体格や能力、技術をこんなものだと思っていたことです。しかしファンタジスタと呼ばれる人は、豊かな発想を持っているのです。

子どもたちはファンタジスタです。毎日チャレンジし、工夫し、遊び、発見し、想像力を発揮します。私たちは子どもたちの発想を広げるために、固定観念に凝り固まって、子どもたちの発想を狭めていないかを自らに問いながら日々を過ごしたいと思います。子どもたちが様々な場面で、自分にしかできないような想像力を発揮し、共に生きる世界を切り開いて成長してほしいと思うからです。

やがて子どもたちは私たちの知らない世界に飛び込んで行くでしょう。その時に、愛されている感覚と、豊かな想像力を携えて、思いっきり人生を喜び踊ってほしいと思います。すべての子どもたちがファンタジスタ。すべての人々がファンタジスタなのですから。


6がつのコラム (2017年06月01日)

教育の力

~真理は人を自由にする~ 聖書

福井に来てうれしいことの一つに漢字学の白川静のことを色々な所で見聞きできることがあります。漢字の成り立ちは福井の学校教育の中でも、あるいは公共の施設でも触れる機会があり、これはまさに教育の賜物です。日本全国の中で、福井程白川静の漢字学を教育の中に取り入れている町は無いように思いますし、東洋学の基礎となる漢字学を大いに興味を持ち学ぶ子どもたちが増えることは、自由な学府の雰囲気を高めてくれることでしょう。

一方で、他者に対する非寛容さや排他性も教育が大きな影響力を持っているものです。異質な他者に対する理解を拒否する教育や、一方的な押しつけの教育は、そのような思考、行動へとつながる影響力を持った教育です。ここ数年、憲法を無視した安全保障関連法が可決されたり、武力による解決法が避けがたいものかのような雰囲気が作り出されているような気がしますが、これらは教育に対する脅威であり、挑戦であるような気がしています。

今一度教育の持つ影響力と力を心に留めたいと思います。聖書に「真理は人を自由にする」という言葉があります。私たちは意識するのとしないのとにかかわらず、色々なものに影響を受け、自由であるようでいて自由さから遠ざけられていたり、自由について考えることも、その意味や中身を意識することもないのかもしれません。

いつしか人はこれ以外に選択肢が無いとか、しょうがないという思いの中で今を生きることを余儀なくされています。その一つの例が貧困、格差、戦争であり、なくならないという思考や思いが、現状を作りだしているともいえます。戦争や武力による解決は自由さを失った者の姿です。人は共に生きることが出来、自分が他者に対してどのような思いを抱かせているのかを振り返ることが出来、逆に他者の思いを汲み取るために努力することが出来るのです。先日ある教育の専門家の方から「言っても通じないと嘆くよりも、自分の言い方を少し変えてみては」という言葉を頂きました。教育保育の現場で、人と人との間で、幼稚園とご家庭との間で、そしてお友だちとの間で、毎日営まれている触れ合いと共に生きるための努力。それはこの教育の専門家の方の言葉の実践に他なりません。教育は共に生きるために自分の心を自由にし、振り返ることであって、他者を否定するためにあるものではないことをその教育者の方から教えて頂きました。教育の力は私たちが共に生きるための力です。


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