6がつのコラム (2023年10月01日)
〈チャプレンのコラム〉
「リズム」
「もう夜遅いから、早く寝なさい」と子どもの頃に母親からよく言われたものです。夜、決まった時間に寝て、また朝、決まった時間に起きる。それは、おそらく「生活のリズム」を整えるということなのでしょう。この「生活のリズム」が乱れてしまうと私たちの体は不調をきたしてしまいます。
私は、30代に入るまで10年間鉄道会社に勤め、7年間は電車の運転士をしておりました。勤務体制は「泊まり勤務」が基本でしたので、朝に仕事が終わることがほとんどでした。けれども、そのように非番で家に帰ると、疲れでどうしても夕方まで眠ってしまい、そうしますと、今度夜に眠れなくなってしまいます。そのような状態が何年も続き、気がつけば私は、一種の睡眠障害に陥ることになりました。
このように考えてみますと、人間というものは、太陽が出る日中の時間帯に動き、そして太陽が沈む夜になると休息するようにできているということが言えます。当たり前と思えるかもしれませんが、私たち人間は、こうした太陽の巡りや季節の移ろいといった繰り返される「リズム」の中で生きているということが言えるでしょう。
聖書には、「はじめに神様はこの世界をお造りになった」という天地創造物語がありますが、その中で「神様は、一日を昼と夜とに分けられた」(創1:4-5)といった記述があります。つまり、私たちが太陽の巡りや季節の移ろいといったリズムの中で生きている、それも神様の御業(みわざ)なのだということが聖書の中で言われております。
私たちの生命(いのち)は、常にこうした「リズム」によって支えられているのだということを、今一度思い返したいと思います。
9がつのコラム (2023年09月01日)
◇チャプレンのコラム
勝ち負けにこだわらない?
私は、中学、高校の時、ハンドボールをやっていました。試合に勝つために、チームが一丸となって、毎日遅くまで練習に励んでおりましたが、毎年のように県大会の決勝で強豪校に敗れ、インターハイに行けなかったという悔しい経験があります。
スポーツは、「勝ち負けにこだわる」からこそ、喜びがあり悔し涙がありますが、しかし、「勝ち負けにこだわらない」ところにも感動がある。そのことを思い知らされたのが、昨年のJリーグで、アビスパ福岡と名古屋グランパスの試合の一幕を見た時のことでした。
アビスパ福岡のある選手が足を負傷してしまったため、名古屋グランパスの選手が一旦ボールを外に出して、試合を中断させます。その後しばらくして、アビスパ福岡のスローインで試合が再開されました。その際、ボールを一旦外に出した名古屋グランパスにそのボールを返してあげるというのがフェア精神に則った暗黙の了解となっていますが、しかし、アビスパ福岡のある選手がそれを無視して、ボールを維持したままゴールを決めたため、名古屋グランパスの監督を含め選手たちが猛抗議をしたというシーンでした。
私が心を打たれたのが、その後、アビスパ福岡の長谷部監督が取った決断でした。長谷部監督は、大きな声で選手たちに指示を出します。なんと長谷部監督のその指示は、選手たちにじっとしたまま動かず、無抵抗のまま、名古屋グランパスに1点をあげなさいというものでした。
「勝ち負けにこだわる」ことも大切です。しかしだからといって、手段を選ばずに勝った場合、必ず心のどこかにしこりとして残ってしまう。「人間とはそういうものである」とある本で書かれておりました。長谷部監督は、そのことを感じ取り、「名古屋グランパスに1点をあげなさい」と指示を出したのだと思います。
聖三一幼稚園でも、9月に運動会があります。相手チームのことを思いやりながら真摯に、正々堂々とがんばる子どもたちの姿が目に浮かびます。
8がつのこらむ (2023年08月01日)
〈チャプレンのコラム〉
アリとキリギリス
めざましテレビで放送されているショートアニメ「紙兎ロペ」を、私はよくYouTubeで観ています。何年か前に、その中の登場人物であるロペとアキラ先輩がイソップ童話の「アリとキリギリス」をテーマに話をしていたのを思い出しました。
ご存じの通り、アリたちは食料を運んでしっかり働き続けますが、他方キリギリスはヴァイオリンを弾いて遊んでいます。おそらく誰でもこの童話を呼んで、「私もアリさんのようにこつこつと働かなければならない」と感じることでしょう。私もそう思っておりました。しかし、ショートアニメ「紙兎ロペ」の中で、アキラ先輩は、この童話に対して、おもしろい見解を示します。「キリギリスは遊んでいたのではない。ヴァイオリンを演奏することによって、働き続けるアリたちを、一生懸命励まそうとしたのではないか。」なるほど。確かに音楽には、人を元気づける力がある。「アリさんのようにこつこつと働きなさい。」それはそれで大切なメッセージですが、アキラ先輩の見解からすれば、アリにはアリの才能、能力があり、キリギリスにはキリギリスの才能、能力がある。それは、ある意味「自分らしさ」と言っても良いかもしれません。
聖書では、それぞれ異なる才能、能力、言い換えれば「自分らしさ」を神さまからいただいた「賜物(プレゼント)」として捉え、それを誰かのために役立たせることを勧めています。例えば、キリストの使徒となったパウロは、彼の書いた書簡の中で、体は、目や耳、手や足といった多くの部分から成って一つであるように、それぞれ神さまからいただいた賜物は、人それぞれ異なるのだと述べています。「自分らしさ」、神さまからいただいた「賜物」が人それぞれ異なるからこそ、それが全体の益となる。
時に、私たちは、他者と比較して「自分はなんてダメな人間なんだ」と自己卑下に陥ってしまうことがあります。けれども、自分の嫌いだと思える「自分らしさ」が、実は他者にはない才能、能力、神さまからの「賜物」であるのかもしれません。
5月のこらむ (2023年05月01日)
わたしたちに向かって語りかけられる神さま
チャプレン 藤井 和人
ちょうど一年前から、私は運動不足解消のために、野鳥観察を始めました。カメラを片手に、近くの公園や森に足を運びますと、そこにはさまざまな種類の野鳥たちが生息していることに気づかされます。野鳥たちの鳴き声に耳を傾けてみますとどうでしょうか。近くで小鳥がさえずると、それを聞いていたのか、遠くの方から同じように、別の小鳥がさえずります。まるで小鳥同士が互いに対話をしているかのようです。
今月の主題聖句は、「主よ、(サムエル記上3章9節)です。旧約聖書に登場します少年サムエルは、「サムエルよ」と呼びかける神さまの声を聞きました。そこで少年サムエルは「お話ください。僕は聞いております」と神さまに向かって応答します。そのようにして少年サムエルは、神さまとの対話の中で、神さまと出会い、それ以後、神さまのメッセージをイスラエルの人々に語る預言者となっていきました。
神さまは、単に高いところにある天からこの地上を傍観者のように眺めておられるだけではありません。神さまは、私たちを呼ばれ、私たちに向かって語りかけられます。大切なことは、少年サムエルが「お話ください。僕は聞いております」と神さまに向かって言ったように、私たちも、聖書のみ言葉を通して、今も語りかけておられる神さまの声に耳を傾けていくことなのでしょう。そのように聖書のみ言葉を「聞く」ことを通して、神さまの愛、神さまがいつも私たちを大切に守ってくださっていることを私たちは知っていくのだと思います。
4がつのコラム (2023年04月01日)
一歩を踏み出す
チャプレン 藤井 和人(ふじい かずひと)
はじめまして。この4月から聖三一幼稚園のチャプレンをさせていただくことになりました藤井和人と申します。10年ほど鉄道会社に勤めておりましたが、会社を辞めて、牧師の道を進む決断をいたしました。今年の3月に牧師を養成する神学校を卒業したばかりの駆け出しです。これから園での礼拝のご奉仕を主にさせていただくことになります。
私にとって、春は、どちらかと言えば苦手な季節です。なぜなら、それは、単に花粉症に苦しめられるということだけでなく、新しい生活が始まることに対して不安を抱く季節でもあるからです。そのような季節に、私は「はじめの一歩」という歌を思い出します。
はじめの一歩 あしたに一歩 今日から 何もかもが 新しい
これからどうなるか分からない新しい生活にたとえ不安を抱いていたとしても、それで構わない。大切なことは、それでも勇気をもって一歩を踏み出すことなのだ。この歌には、そのような意味が込められているように思います。キリスト教の信仰から言えば、それは、新しい生活に向かって、その一歩をイエスさまにおゆだねしていくということなのでしょう。
今週の聖句は「子供たちをわたしのところに来させなさい」(マルコによる福音書10章13-16節)です。「わたし」とは、イエスさまのことです。イエスさまは、いつも子どもたち一人一人をご自身のおられるところに招いておられます。このイエスさまの招きによって、園での生活の中で嬉しいときも悲しいときも、そこにいつもイエスさまが一緒にいてくださいます。この4月から新たな一歩を踏み出そうとしている子どもたち一人一人の上に、いつもイエスさまのお守りとお導きがありますように、お祈り申し上げます。