ちゃぷれんの広場

ホーム > ちゃぷれんの広場

8がつのコラム (2025年08月01日)

❀チャプレンのコラム❀

支えられている

先月のチャプレンのコラムの続きとなりますが、アサガオの成長日記です。6月上旬に、教会の宿舎のベランダで、アサガオを育てることにしました。プランタ-に肥料を敷いて、アサガオの種を10個ほど蒔き、どの芽も大きく成長しました。

そろそろ、ツルを支えるための支柱を組んで、網を張ります。けれども、これまで園芸の経験がない私が作ったそれは、グラグラして、何とも頼りないものになってしまいました。プランターだと、土が浅いので、どうしても支柱を地面のように奥まで差し込むことができないのです。それが分かり、私なりにどうすればよいか考え、支柱をヒモで左右に引っ張り、石で固定することにしました。

「これで、本当にアサガオを支えることができるのか」少々不安な気持ちでした。けれども数週間たって、アサガオのツルは、支柱を抱くように、どんどん、グルグル絡みつきながらてっぺんまで上っていきます。

なんだか、アサガオを支えるために組み立てたはずの支柱が、むしろ成長するアサガオによって支えられているような感覚になりました。

この「支えられている」という感覚は、私たちの人生において、とても大切なことなのだと思います。苦しみや悲しみなど、今抱いている重みを自分だけで背負い込むのではなく、誰かに分かち合ってもらい、ときにはその誰かにゆだねてみる。それは、とても勇気のいることなのかもしれません。けれども、そうすることによって、「支えられている」という感覚が研ぎ澄まされ、私たちは慰められます。

心と体が弱り果てているとき、私たちは、神さまに向かって祈ります。そのとき、まるで手のひらの中で包み込まれるように、神さまによって、「支えられている」という感覚が研ぎ澄まされていくのです。


7がつのこらむ (2025年07月01日)

〈チャプレンのコラム〉

焦らなくていい

6月上旬に、教会の宿舎のベランダで、アサガオを育てることにしました。60cmくらいの長方形のプランタ-に肥料を敷いて、アサガオの種を10個ほど蒔きました。これまで園芸の経験が皆無に等しい私は、毎朝水やりをしながら、このような育て方で本当に良いのか半信半疑でおりました。

一週間ほどたって、プランタ-を覗き込みながら、よくよく見てみると、土の中から一つの小さな芽が顔を出しておりました。発見したときは、うれしかった。と同時に、生命の神秘さえ感じました。

次から次へと芽が出てきて、5日ほどで、どの芽も双葉くらいまで成長しました。けれどもプランタ-の右端のエリアだけ、まだ芽すら出てきません。そこにも種を蒔いたはずだったのですが、もう無理なのかなと思っておりました。するとどうでしょう。それから、さらに一週間がたって、ようやく芽を出したのです。「ああ、アサガオにも成長に差があるのだな」と思いながら、そのような姿を眺めておりますと、ふと私にこう訴えかけてくるものがありました。

「焦らなくていい。自分のペースで生きていけばいいんだよ。」

なんだか穏やかな気持ちになりました。私たちは、何事をするにも、一人ひとりのペースというものがあります。この社会で生きていくために、大人になれば、自分のペースだけでなく、相手のペースに合わせていく、そのような協調性が大切になってきます。けれども、逆に相手のペースに合わせようとばかりいては、それはそれで、いずれ疲弊してしまうのではないでしょうか。

そのようなとき、「焦らなくていい。自分のペースで生きていけばいいんだよ」と言い聞かせてみるのも良いのかもしれません。そのように、一歩ずつ、少しずつでいいから、自分のペースに自信が持てれば、逆に、相手のペースをも尊重しようとする気持ちが芽生えていくのだと思います。


6がつのコラム (2025年06月01日)

「守ってあげたい」

松任谷由実さんの「守ってあげたい」という歌を久々に聴きました。

「守ってあげたい。あなたを苦しめるすべてのことから」

ここに「愛する」とうことの大切な意味が込められているように思います。今、あなたが苦しんでいる、その苦しみがわたしのものとして感じられるからこそ、「守ってあげたい」という気持ちになるのでしょう。

聖書には、「愛する」という言葉がたびたび出てきます。掘り下げて言えば、それは、相手の「痛みを知る」ということです。

さて、「守ってあげたい」の二番目には、次のようにあります。

「守ってあげたい。他には何一つできなくてもいい」

ここにも「愛する」という言葉の響きを感じます。「他には何一つできなくてもいい。」ただ、苦しみ、悲しみの中にあるあなたのことを守ってあげたい。それほど、あなたのことを狂おしく想っているということなのだと思います。

聖三一幼稚園では、これまでキリスト教精神に基づく保育、いわゆる「キリスト保育」を基軸として歩んで参りました。「キリスト保育」において、子どもたち一人ひとりに一番伝えたいこと、それは「あなたは神さまに愛されている」ということです。

園での生活の中で、毎日、子どもたちと一緒に、神さまに向かって「今日もわたしたちのことを守ってください」と祈ります。


5がつのコラム (2025年05月01日)

〈チャプレンのコラム〉

「みんな違っていていいのだよ。」

詩人の相田みつをさんが書かれたものの中に、「トマトにいくら肥料をやっても、それはメロンにはならない」という名言があります。

トマトよりメロンの方が高級であるというのは、人間が思っている価値観なのであって、トマトが無理にメロンにならなくてもよい。「トマトはトマトの命を、一生懸命に生きる」、「メロンは、メロンの命を、一生懸命にいきる。」それで良いのだと言います。

相田みつをさんのこの視点は、キリスト教保育の根幹である「神様は、子どもたち一人ひとりを大切にしてくださっている」ことと通じるものがあります。キリストの使徒として生涯を送ったパウロは、聖書の中で、私たちを「キリストの体」として表現しています。もし私たちが、みんな「目」であったから、体としてはうまく機能しません。目だけでなく、鼻や口、手や足など、さまざまな部分によって構成されているからこそ、体はうまく機能します。そのように私たちは、神様からそれぞれ違った賜物(たまもの)をいただいているのだとパウロは言います。それは、私たち一人ひとりの違った「個性」・「自分らしさ」と言ってもよいかもしれません。

「みんな違っていていいのだよ。」私たちは、そのように違いのあるお互いを大切にしていくことが、本当の平和と一致に向かっていく道筋なのだと思います。園での生活を通して、私たちは、このことを、個性豊かな子どもたち一人ひとり

の姿から学ばされている気がいたします。


4がつのコラム (2025年04月01日)

❀チャプレンのコラム❀

ありのままのわたしらしさ

お笑い芸人の「中川家」の中川礼二さんが、コントの中で、芸人としてのあり方について、大切なことを言っておられました。

「漫才とは、その人なりの人間性があって、そこからネタがくっついて、はじめてキャラクターになるのだ。けれども芸人の誰もが勘違いしてやってしまうことは、最初に無理してキャラクターを作ろうとしてしまうことである。」

ここで中川礼二さんが言っておられる「その人なりの人間性」を言い換えれば、それは、「ありのままのわたしらしさ」ということになるでしょうか。「ありのままのわたしらしさ」は、自分で無理して作り上げようとするものではなく、他者との関係性の中で、自分では気づかないうちに、自然として、育まれていくものなのだと思います。

子どもたち一人ひとり、みな違った人間性、「ありのままのわたしらしさ」がすでに備えられています。

これからも聖三一幼稚園が、子どもたち一人ひとりにとって、「ありのままのわたしらしさ」として育まれていく居場所であってほしいと祈ります。神さまは、そのような子どもたち一人ひとりを、、今も大切に守ってくださっています。